国語力というもの
川端康成は「末期の眼」という文章の中で、芥川龍之介が死を前に遺した「或旧友へ送る手記」を引用していて、
更にそれを、高階秀爾が「「美しさ」の発見」という文章の中で孫引きしている。
『唯自然はかういふ僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛し、自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは、 僕の末期の眼に映るからである』
文章中の「矛盾」とは何かを簡潔に説明せよ。という、オイラが拵えた「現代文」のテスト問題。
高校一年生の大半が、本文中の語句をそのまま引いて、
「自然を美しいと思いながら、自殺しようとしていること」と、解答する。
すると思った(爆)
のだが、それは限りなく、果てしなく、間違っちゃいないけれど、△……。
なんとなれば、この問いは、
「自然を美しいと思っていること」と「自殺する」ことが、なぜ矛盾しているのかについての説明を加えることが求められている求めている。
のですけれど、
大多数の者は、そういうことが求められているということに思いを致さない。
或いは、思いを致す者も、それを自身の言葉で説明することができない。
「自然を美しい」と感じる心を持っているということは、自身が生きているこの世界の持つ素晴らしさを体感している。
換言すれば、この世界の素晴らしさを実感している。"What a wonderful world!"と思っている。
にもかかわらず、そんな、素晴らしく素敵な世界に、自分は自分の意志でサヨナラをしようとしている。
そのことが「矛盾」でなくて何であろう……。
というようなことを説明することが、質問に対する答えなのであるけれど、
大多数の高校一年生たちは、そういう説明をしようとしない。或いはできない。
それが、国語力、言語力の貧困というものなのだけれど、
先ほどのツイッターでの生徒とのやり取りで、あることを思った。
とある生徒さんのツイート。(うら若く可憐なJKですよ〜、みなさん!)
→ ○ちゃん(彼女自身のコトね)のことが好きで好きで仕方ない人の誕生日
「1/19」「1/6」「5/30」「1/16」「3/7」「7/5」「11/11」「12/17」「8/28」「10/9」
それに対するオイラのレス。
→ 入ってますが、何か(笑)
またそれに対するJKのレス。
→ え、ほんまですかww嬉しいです(棒読み)
に、対するまたまたオイラのレス。
→ 棒読みしてないで、勉強してくだしゃい (´ε`*)
このやり取りにおける、JKの記した「(棒読み)」に込められた意図を簡潔に説明せよ!
と言われた時に、果たして何人の現役高校生が、或いは、オトナたちが、簡潔に説明できるのか?
これを自身のコトバで説明できるのが、国語力というものです。そして、言語能力というものです。
大学の「国語」の入試問題というのは、突き詰めれば、こういう能力を問うておるのだと思います。
でも、
それがデキル者は、とても少ない。
そして、それができたからといって、得にはならない。
そんな世の中だから、ダメなんじゃないかな?
あ〜は〜……。