空気を読む
中学だと「内申書」、高校だと「調査書」。
公立高校入試、個人的には「学力検査」一発勝負でいいんでないの? と、思うのだが、
内申点盾にして生徒を管理している公立中学校の現場が、それをされると困るからか何なのか、
高校によって、その割合は違えど、「学力検査」に加えて、「調査書」記載の各教科科目の評定を点数化して合否の判定に使用致しておるので、
「内申書」御大切なのでしょうけれど、
大学受験の場合、推薦入試やAO入試などようの場合はいざ知らず、通常の大学入試の場合、「調査書」記載の内容が合否に影響するわけでなし、
「卒業(予定)証明書」、高校での成績が知りたいなら「成績証明書」でいーんでないの?
と思うのだが、どの大学も「調査書」を欲しがる。なんでやねん?
と、思いながら、高校教師は、担当生徒個々人の一年間の学習活動の記録であるところの「指導要録」など記載するのに合わせて、
「調査書」を拵えるのですけれど、「調査書」にも、「就職用」と「進学用」がございますのですけれど、
学習状況やら所見欄というのございまして、生徒さんたちの「人となり」を、わかったような顔して記載せにゃならんのであります。
前勤務校で、中華学校からの受験生の「内申書」見た時、担当教員の書いた、これでもかという罵詈雑言を目にした時、
ここまで悪く言われる生徒ってどんなヤツなんだべ?と、思ったけれど、入学してきた当の本人と関わって、そこまで悪いヤツでもねーじゃん……。
と、いう経験あって、国民性の違いですかな?とも思うのですが、
この国の人の常として、「内申書」や「調査書」に、「否定的なこと」は書かないというのが、常識となっております。
ほとんど口を開かず、何考えてるかわかんない生徒は、「温厚」
わがまま放題好き放題で手を焼く生徒は、「快活」
日々、仲間と群れ集って騒いでいる生徒は、「社交性に富む」
だったりするのですが(爆)
受験本番近づいてきた現任校の生徒たちの「調査書」作成するのにキーボード叩きながら、今さらのように気づくのは、
「成績の良し悪しこそあれ、ほとんどみんな、それぞれに、いい人たちですね」ということ。(無論、例外はあります(爆))
みなそれぞれに空気を読んで、出しゃばってるように思われぬよう、必要以上に目立たぬよう、
それでいて、ガッコの中で自分を殺さずに生きていける場所を見つけて生きている。
それができるだけの賢さをみな、身につけている。
「いいヤツら」ですなぁ、と思う一方で、
空気を読む中で、その場の空気が「きな臭い」と思ったその時に、
「きな臭さ」を嗅ぎ分ける能力が、彼彼女らに身に付いているのかどうかということを含めて、
「どうも、ここの空気はよくないよ」と言い出せる度量が彼彼女らにあるのかどうか、
彼彼女らの「いい人」さというのは、「きな臭さ」の中にあっても、その中で上手く立ち回るだけの人ということなのではないか?
という危惧が、杞憂ならいいのですけれど、
などようのこと思った、今日のアタクシ……。