愛に邪悪しかない時代

授業で、坂口安吾の『ラムネ氏のこと』を読んでいた。


1941年に書かれたこの文章、
オレも高校のときに読んだ。そして、その時、震えた。


オレが高校生だった頃、進学校と呼ばれているガッコの現代文の教科書は、筑摩書房と相場が決まっていた。
今はそんなことはないけれど、未だに「ラムネ氏」を載っけ続けているというその意気や良しと、オレはオレの好みで、筑摩の教科書を採択している。


開戦前夜のきな臭い世相世情の中、上から、あれはいかんこれはよくない、不逞だ不埒だ不穏当だとダメだしにかかっていた連中を尻目に、
安吾はいけしゃあしゃあと、時代がどうなろうがオレはオレの書きたいこと書くけんね。それが物書きというもんだけんね。ばーか!
という短文をものし、世間に発表している。


上からあーだこーだ言いたがる連中の多くは、今でもそうだが、文学などいうものを解する能力のない「たわけ」であるから、
安吾の言わんとするところの真意がわからなかったのであろう。単なる発明発見についての面白話とでも思ったのであろう。
だから、この短文は、世間に出た。


高校生だったオレは、なんとPUNKなおっさんであることよ。と、心震わせた。
でも、今の高校生がこの文章を読んでどう思うのかはよくわからない。


彼彼女らは、この今のご時世にあってもなお、
自由について、それは予め許されているものであり、今後変化することのない揺るぎなきものだと思っている節がある。


タブレットスマホを手にするようになり、利用活用するためのアプリ、あれこれ試している。
ニュースアプリ、情報アプリ、数あるけれど、それらのユーザーレビューを見ると、


「長らく新聞をとってませんが、これがあれば新聞いりません」とか、
「このアプリを入れてから、新聞とるのやめました」などようのコトバが並んでいる。


きっと、こういう人たちは、元々、新聞というもの、読んでいなかったんだろうな、と思う。
オレは未だに新聞を購読している。それも、よってたかって叩きのめそう潰そうという動きがけたたましい朝日を購読している。


昨日25日の朝日新聞朝刊の「論壇時評」、高橋源一郎による<個人的な意見>なる文章。
こういう文章に出くわすから、こういう文章が載っているから、オレは未だに新聞を購読している。


  自称「愛国者」たちは、「愛国」がわかっていないのではない。「愛」が何なのかわかっていないのだ、とおれは思う。
  こんなこといってると、おれも、間違いなく「反日」と認定されちまうな。いやになっちゃうぜ。


けだし名言だと思う。無料のニュースアプリで、この全文がすぐに読めるとは思えない。
源ちゃんは、この文章の中で、他でもないこの本文が掲載されている当の朝日新聞の昨今のあり方をかなり辛辣に批判している。
それは、朝日が一旦掲載を見送ったにもかかわらず、そのことが表に出ると、掌を返したように筆者に謝罪、謝罪文と共に掲載するに至った池上彰氏の文章の比ではない。


それは、池上氏の持つ影響力を恐れた結果なのだろう。
源ちゃんの原稿を当たり前に掲載するのは、源ちゃんの持つ影響力を掲載紙面の大きさとは裏腹に小さく見積もったからなのだろう。
作家の書いたものを掲載している新聞そのものが、文学の力を軽視している。


そして、池上氏の文章を一旦拒絶したことは非難するが、源ちゃんの文章を載せたことを褒めるメディアはどこにもいない。


くだらない話である。


源ちゃんの言うように、今、この国の多くの人々は、この国の舵を取る立場にある者どもを筆頭に、
「愛国」がわかっていないのではない。「愛」が何なのかわかっていないのだ。と、オレも思う。


安吾は「ラムネ氏」の中で、


  愛に邪悪しかなかつた時代に人間の文学がなかつたのは当然だ。勧善懲悪といふ公式から人間が現れてくる筈がない。


と、綴っている。


果たして、善やら悪に簡単に線引きをして、一方的に叩きのめそうとする者どもが跋扈する、2014年はどうなんだろう?


  然し、さういふ時代にも、ともかく人間の立場から不当な公式に反抗を試みた文学はあつた。
  すべてがそのやうな人ではないが、小数の戯作者にそのやうな人もあつた。


源ちゃんは、信用信頼に足る、現代に生きる戯作者のひとりだと思うのでした。


オレは物書きではないし、物書きにはなれなかった人ですけれど、高校の頃、思ったのと変わらず、
くたばるまで、安吾のいうところの戯作者でいよういたい。と、思っております。


それは、たあいもなく滑稽なことであるかもしれないけれど。


ね。