消費財としての文化

以前は「現代国語」、今は、「国語総合」&「現代文」という教科の教科書に収められている、


定番教材といわれる、
高校1年次における、『羅生門芥川龍之介
2年次における、『山月記中島敦、『こころ』夏目漱石
3年次における、『舞姫森鴎外


などようの作品群、現在もほぼすべての教科書に所収されているのですけれど、
年を追う毎に、高校生への求心力が、目に見えて、急激に低下しております。


「善悪」の感情やら、「自意識」というもののありようやら、「孤独」ということについて、
思うこと、考えることへの興味関心が極端なまでに損なわれているように見えるのです。


振り返ると、文学が文学としての力を失い始めたのは、90年代の終わりだったように思うのです。


映画化もされ、話題になった『秘密』東野圭吾が世に出たのが1998年。
当時、読んでみたけれど、エンタメとしてそれなりに面白いところはあったのですけれど、
ボクはこれを、「文学」であるとは到底思えませんでした。


この頃から、世の中は、「文学」でないものを「文学」と称して、消費してきたように思うのです。
エンタメを否定するわけではありません。上質なエンタメは人の生活を豊かにしますから。
今、新たに、歴史に残る「文学作品」として『秘密』を手にする人が、どこに、何人いるのか?という話です。


1980年代の終わりから、バブル期のこの国で持て囃された、
クリスチャン・ラッセンのイルカの絵、ヒロ・ヤマガタの膨大な作品群、


あれだけ持て囃された彼らの絵は、コピーを含めて、今や、ほとんど見かけることがありません。
今、彼らの絵を掲げることは、単純にお洒落ではなくなりました。
彼らの絵は、「アート」ではなく「ファッション」でした。「ファッション」を「アート」と称し持て囃していた。


当時であっても、そのことをわかっている人は、わかっていました。


今、それがわからなくなってしまった人ばかりになってしまったように思うのです。
「文学」も「美術」も、その世界に特別な思いを抱いて接している、一部の好事家だけの嗜みになっている。


「音楽」もまた然り、大量に生産生成される、「実」のないものが金を生み、消費されていく。


「実」のあるものに向かって、その「実」を感得するには、
「文学」であれ、「美術」であれ、「音楽」であれ、「映画」であれ、「演劇」であれ、
それなりの努力を持って、「言語」や「マナー」や「歴史」といったものの知識を獲得する必要がある。


そういった努力なしに、深く沈潜する思考を経ることなく受け入れることのできる、
ただ口当たりの良いだけの、それその時を面白がることができるだけのものを、
ディズニーランド的な、USJ的なものを、
多くの人は求めてきたし、それに応える側は、手っ取り早く「金」になるものを提供し続けてきた。
そんな中で提供されたものは、数年後、「金」以外のものは何も残さない。


ここ数十年、「文化」を、ただ消費するためのものとして、「金」を生むための道具として扱ってきたことのツケが、
大きなツケが、今、回ってきているように思えてならないのです。


社会全体から、「文学」を、「美術」を、「音楽」を、「芸術」の持っている魅力を、
嗅ぎ分ける力が脆弱化していることが、ありとある馬鹿げた事態の根っ子にあるように思えてならないのです。


だって、国家を牽引するトップにいる連中が、「文学」を玩味できる「読解能力」を有しているとは、
「美術」や「音楽」や「映画」の鑑賞に堪える「審美眼」を有しているとは、
とてもじゃないけど、思えませんから。


彼らに、ボクの拵えた国語の試験、受験させたら、手も足も出ないこと受け合いますから。


同調圧力に抗うには、己の頭でモノを考えること。
考えるには「言葉」が必要。「言葉」のないところに思考はない。
思考のないところには「判断」もない。「判断」のないところには「文化」もない。


「異文化理解」とか「他文化理解」など、暢気に語っている場合ではなく、
自身の「文化」が危機に瀕していると思う中、国語教師を続けていることが、


徒労に思えてきた今日この頃。
定年まで、動機を維持できますかどうか……。