「リベラル」は、いつから悪になったんだろう?
穏やかな日曜の朝に、思うこと。
高等学校で国語教師という仕事を三十数年続けてきているボクですが、
高等学校「現代文」の教科書に載っかっている文章の数々は、
「自由」と「平等」と「平和」を、そして、その根っ子にある「基本的人権」というものの大切さを語るものどもばかり。
「平和」は、世界中のすべての人が希求しているところのものだとして、
百歩譲って、いや、万歩譲っても、いや、実は、譲れないところなのではありますが、
世の中には、
「軍事力」の増強こそが「平和」の礎なのだと主張する人たちが、
我と我が身を脅かす者どもに対しては、「対話」ではなく「圧力」こそが正義であると語りたがる人たちが、
多く存在しているのではありますが、
それらが、「平和」に繋がるものであるということを謳う者たちのコトバは、「現代文」のテキストには一切掲載されておりません。
そして、一部、例外的な大学を除いては、
そういう言説を声高に叫ぶ者たちの文章が、入試問題として取り上げられることはまずありません。
いわゆるひとつの「リベラル」とは何かを考えることこそが、高等学校における「国語」の、大きな仕事のひとつです。
にも関わりませず、
政治の世界では、
唯一の被爆国であるにも関わりませず、
(反核を装いながら)あわよくば「核」を武力として保有することを志向している人々が跋扈し、
「国民主権」と「基本的人権」にテコ入れしようと手ぐすね引いている。
そんな彼彼女らを支持支援する、文化人の皮を被った政治屋や作家や学者のコトバは、
決して「国語」教科書に取り上げられることはありません。
まともな大学の先生方が、入試問題として受験生たちに読ませることはありません。
文化的、芸術的に価値があるとされてきたコトバの数々はすべて、「リベラル」の精神に支えられている。
「リベラル」を「赤」と呼ばわるなら、現行の「高等学校国語」教科書は「真っ赤っか」、大学の国語の入試問題もまた然り。
だから、権力者は、ともすれば教育に口を挟みたがる。
「教科書」を、「黒塗り」ならぬ「赤塗り」しようとする時代の足音が大きくなって来ています。
「リセット」しなければいけない戦後などありません。
「踏み絵」を強要し、させられる社会に、「自由」などありません。
民主国家にあって、
「自由」と「平等」と「平和」を、そして、それを支える「人権」を守るのは、
我々、国民自身です。
朝が、穏やかであり続けられますように。
明日もまた、いい日でありますように。