感覚の奴隷、不毛の荒野

夏休み前と夏休み明け、短縮特別時間割で進行していた間に、
「現代文」担当している3クラス、進度がバラバラになっていて、


イチバン遅いクラスが、「死と向き合う」清水哲郎 〜 生命倫理
次に遅いクラスが、「ことばへの問い」熊野純彦 〜 言語哲学
イチバン早いクラスが、「貨幣共同体」岩井克人 〜 経済社会学


で、週のアタマの月曜は、その「現代文」ばかり3クラスの授業。


どのクラスで、テキストのどこにどの話をどのタイミングでどう絡めて致したのか、致さなかったのか?
ということが、混沌として参りまして、


同じ話を何度も繰り返したクラスもあれば、軽く触れただけのクラスもあったかも知れません(爆)


にしても、


それは今に限ったことではないのかも知れませんのですが、


若者たち、明治大正昭和の小説家、小説作品を知らぬのは元より、
映画にしても、それを監督の作品として見ていない。古い作品となると、まるで関心がない興味がない。


「死と向き合う」という評論文、
重篤な病に罹った患者が、迫り来る自身の死と向き合う中、そこにどのように「希望」を見出すのか?という話、
何かを「遺す」ことで、「希望」を見出すことがあり得るということが途中で提示されているのですが、


それって、まさしく黒澤明が『生きる』で描いたことなのですけれど、
彼彼女らのほとんどは、『生きる』はもちろん、黒澤明を知りません。


知っている映画監督を挙げてみて?と促しても、大多数の生徒は、たったひとりの監督の名すら挙げることできなさそうで、


彼彼女らは、そこそこの大学に進学して、学生生活送るようなのですが、


日々、何を読み、何を観、何を聴いて、生きてくんでしょか?
生きる中で追求するのは、金銭的な豊かさだけなんでしょか?
文学や、音楽や、映画や、絵画は、人生に必要じゃないんですかね?


まるで、「自民党」や「維新の会」みたいですね。


大量消費時代を泳いで行く彼彼女らの脳内が、感覚の奴隷にならぬことを、不毛の荒野にならぬことを願いつつ、


今日も、孤軍奮闘……。