研修と書いて無駄と読む

不登校・ひきこもり、などようのことをあれこれ考えておりましたら、


午後、職場の研修、まさに、それがテーマで。


教育委員会の人たちやって来て、我が職場の実例を元にして「ケースワーク」のためのアドバイス


なんだけど、


長く現場にいて、想像力というものを動員できる者であるならば、


当たり前のことばかり、目新しいこと何ひとつございませず、


時間の「無駄」でありました。


何よりも、


「取りあえず学校に来ることができるよう」支援するには、という前提に問題がある。


自己肯定感を抱けず悩んでいる者に対して、「あなたにもこんなにいいところがありますよ」と思わせましょう、というそのメソッドに無理がある。


昨日のブログに書いた、山田ルイ53世なる、芸人にしてボクの後輩が、毎日小学生新聞のインタビューで語った言葉、


  僕の6年間を、『でも、その6年間があるから今がある』と美しい話に落とし込みたい人がいるかもしれません。
  だけど裏を返せば、そこには『意味がないとだめ』という意識があります。そんな意識が実は、問題だと思います。
  みんなが素晴らしい人生ではない。無駄や失敗にまみれた人が、ただ生きていてもいい。
  そこに善悪はない。僕はそう思います。


実は、教員にとって悩ましいのは、不登校に陥った若者と、その保護者に、
学校に行きたくないなら行かなければよい。あなたにとって逃げ出すことの方が、今は大切かも知れない。
学校が、あなたを見捨てるわけではありません。見捨てることはしないけれど、
学校は、私は、他人であるあなたの人生を共に生きることはできません。
あなたの人生を生きるのは、あなたです。そして、あなたは、ただ生きるだけでオーケーなんですよ。そこに善も悪もありません。


ということを、どのタイミングで、どう語るのがいいのか、ということだと思うのです。


研修は、そんなことを何も教えてはくれません。
寧ろ、専門家である彼らより、ボクの方がわかっているかもしれません。


山田ルイ53世に来てもらった方がいいんじゃないかな?