ティーンエージャーだった頃

一度もその芸を目にしたことはないのですけれど、


髭男爵」という漫才コンビの、山田ルイ53世という人、
不登校、ひきこもりの経験を語ったり、本にしたり、メディアの取材に答えたりしているので、
ちょくちょくお目にかかるのですが、


この人が不登校になり、ひきこもりになり、中途退学するに至った中学高校、
ボクが卒業した学校なので、目にする度、他人事とは思えません。


  私立の名門中学に合格、自分を神童だと思い、親のテンションも高かった。学校にはいわゆるエリート階層の子が多く、
  高卒の公務員だった父はそこに自分がいたことに上機嫌。家が遠く、毎日早朝に起きて片道2時間かけて通学。
  クラスに友達はいても、高級ホテルで誕生パーティーを行うような裕福な家庭の子が多く、僕は彼らをうっすら憎んでいたような気がします。
  両親も厳しくて、そのストレスで中学受験前からあった「段取り癖」が悪化。心も体もパンパンに張りつめていました。(山田氏談)


で、次第に学校に足が向かなくなって、ひきこもり。そして、中退。に至ったようなのですが、


この人、ボクよりも一回り近く年下ですが、境遇状況がボクと実によく似ています。
ボクの両親は中卒、父親は鉄工所で働く溶接工、ブルーカラーでした。通学は片道1時間半。
友達はいても、周囲には、同級生のみならず、教員にも、学歴や家庭環境をあからさまに馬鹿にし蔑む連中がいて、いたずらに疲弊しました。
今でも、こいつのことだけは許さない許せないニンゲンが複数おります。
そんな中、ボクは心折れることも、壊れることもなかったけれど、そんな彼らと足並み揃えて受験エリートの道を歩むことが馬鹿馬鹿しくなって、
日がな一日、小説を読み耽り、映画を見、音楽を聴く生活、勉強は学校以外の場ではほとんど何もしなくなっていました。
ボクに大きな期待をかけていた両親とは、深い溝が生じました。
そして、ボクの両親は、ひとり息子であるボクの教育に投資し、ボクを学歴エリートにすることで、
息子であるボクの幸福より以上に、自分たち自身の将来の安定を本気で計算していたのだということを知って、鼻白むことにもなりました。


あの学校に入学したことで、いわゆる「金持ち」と呼ばれる人たちの金銭感覚、世界観というものが、
「一般人」とはかけ離れているということをボクは思い知りました。
彼彼女らは、悪気のないところで、自分たちの生活を、「普通」だと思っています。
彼彼女らの「普通」は、この国に暮らす人達の大多数の人達にとっては、「普通」ではありません。


ボクは、山田ルイ53世氏とは違って、あの場所にいながら、きっと、山田氏以上の差別的な言動や蔑視を身に浴びながら、
心壊れたり、心失うことなく、それでいて、自分はココにいるべき者ではないという思いを抱きながら、6年間を過ごしました。


自身の忌まわしい記憶を止めておくために追記しておきます。


  自身の在している地方自治体が行っている、各家庭の収入に応じて申請できる、就学支援金関係の書類を事務室に提出に行くと、
  事務の担当者は、「こんなの今まで見たことないなぁ。へぇ〜。よくわからんけど、取りあえず受け取りますわ」と宣いました。


  夫婦共働きというのが当たり前ではなかったらしい在校生の家庭環境の元、
  食堂を備えていない我が母校(高い学費を徴収しておきながら、24時間営業のコンビニもなかった時代に、食堂がなかったのです)、
  「万が一」(「万が一」なのですよ)昼食を持参できなかった生徒のために、
  パンの販売を行うのですが、その注文を受け、発注し、配布するという仕事を、保護者が、当番制のボランティアで回していました。
  ボクの母親は、当時、旅館の仲居をしていましたから、なかなかつかない都合をつけてその当番に参加していたのですが、
  そんな母親のことを、とある学年の担任だった数学教師は、「オマエの母ちゃんって、ヨイトマケか?」と言って、
  黄色い、隙間だらけの歯を剥き出しにして笑いました。殴ってやろうか?と思いましたが、殴る価値もないヤツだと、思い止まりました。
  こいつ、数学は得意ではないけれど、理屈に勝るボクのことが憎らしいらしく、ボクのことを「学校の恥」と断じて、
  何かの度に矢面に立たせ、制裁を加えようとしていたのですが、殴りつけてくるその手を、腕で払いのけたところ、どうやら、脱臼したようで、
  しばらく、包帯で手を包んで、不自由してました。


  我が母校、全生徒の住所電話番号は元より、保護者の名前と、その職業、勤務先までもを掲載している在校生名簿を毎年作成し、
  全校生徒に配布していました。ボクの父親の勤務先は「○○鉄工所」となっていました。町工場の溶接工ですから。
  ボクは、過去から現在に至るまで、裏も表もない、隠しごとが嫌いな人間ですから、親父は溶接工であるということを、尋ねられれば答えていました。
  また、そういうことを尋ねられることが多かったような気もします。
  それを知った同級生の中に、「○○の親父って、中卒の溶接工なんだって。笑えるよな」ということを影で言い、嘲笑しているヤツがおりました。
  今、何をしてるかしらないけれど、M、学校に媚びを売ることだけは得意だったオマエのことだよ。
  そんなMのことは、キライという以上に、軽蔑しておりましたから、影ではなく、ボクは衆人環視の元で馬鹿にしていました。
  ある日、ボクの反撃にキレたMは、ボクに暴力で反撃しましたが、ボクは、下街の愚連隊たちの中で揉まれてきた歴史を経ていますから、
  実のところ、喧嘩は弱い方ではなかったのですが、その時は、反撃しませんでした。


そんなこんなな、学校でした。


楽しいことよりも、楽しくないことの方が多かった6年間だったけれど、
あの6年間が、今のボクの相当の部分を作ったことは確かです。


今の自分のことを、ボクはキライではありません。


もちろん、あの日、あの時、ああしていれば良かったこうしていれば良かったということがないわけではありません。


けれど、


自由の意味や、平等の意味や、人権というものを日々考えるニンゲンになったのは、


あの6年間があったからだと思います。


そして、


あの6年間でボクが壊れなかったのは、「小説」と「映画」と「音楽」があったからだと思います。