宴のあと

「からすプロジェクト Vol.2」から一夜明けて、


足を運んでくださったみなさまへの感謝の思いと、


一介の、アングラバンドマンとアングラ劇団員が企てることへの限界、


のようなものを感じながら、


改めて気づくのは、


この国の人たち(に限らず、ニンゲンという生き物全般に言えることかも知れませんが)の多くは、


自身が生きていく上で、どう振る舞うか?


ということについて、


おかしいことを、「おかしい」と思っても、角が立ったり、自身が矢面に立つことになる場合には、


適当に相槌を打ってやり過ごすことに決め込む。


或いは、


おかしいことを、「おかしい」と気づくことすらない。


のかも知れないということ。


どんな社会にも組織にも、「理不尽」なことは多々あって、


その「理不尽」と戦うには、それ相当のエネルギーを要するのですけれど、


「理不尽」と戦うことにエネルギーを注ぐより、「理不尽」の中でうまく立ち回る方が「賢い」ということを、


知らず知らずのうちに身につけて、「オトナ」になる者が多いのかも知れません。


どう立ち回るのが「賢い」か?ということだけが、生き方の指針となっているように思われてなりません。


小池都知事が、「関東大震災で虐殺された朝鮮人犠牲者への追悼メッセージを拒否した」件にしても、


実は、それは、彼女の信念から発されたものではなく、彼女を支援する団体との関係を維持するための「忖度」に過ぎないのかも知れない……。


信念であるなら言語道断。信念でないなら、それはそれで更に情けないことなのではあるけれど……。


「偉くなる」というのが、そもそも何を意味するのか、ボクにはわかりかねるのですが、


この社会で「偉くなる」ためには、目の前に「理不尽」な案件が突きつけられても、


それに異を唱えるのではなく、揉み手をしながら「イエスマン」にならなければならない。


社会というヤツ、組織というヤツ、企業というヤツ、どうやらそんな風にできている。


星の数ほどいる、教育公務員のひとりであるボクですが、


それぞれの職場で、「おかしい」と思ったことには、常に「おかしい」という声を上げ続けてここまで来ました。


最初の職場では、着任当初から、教師が生徒に対して行う「暴力」について、異を唱え続けました。


地域で一番の公立進学校だった2番目の職場では、完全週休二日制が導入される中、カリキュラムや授業時間のあり方について、


管理職の浅はかな考えに、異を唱え続けました。


結果、周囲が「報復人事」、逆らうとああなるのだと恐れられる形で、教育困難校と称される職場に異動しました。


「賢い」生き方を選択した人なら、なかった異動だったのでしょう。


ただ、自ら望んで行った職場ではなかったにせよ、そこで、この世の中の「理不尽」の多くを、現実のこととして目の当たりにしたことが、


ボクにとっては、プラスに働いたと思います。


そして、妥協せず、損な生き方をしているにもかかわりませず、「国語教師」としての能力を買われたのか、


今は、多くの公立学校教員が、そういう場所で働きたいと望むような職場で、仕事をしています。


けれど、


買われたボクの能力は、


おかしいことを、「おかしい」と気づくための力を育てること、この世の「理不尽」と戦うこと。


を、教え育てることにその眼目が置かれておりますから、


「世の中を上手に渡る方法」を教えて欲しいと望んでいる生徒たちには、


残念ながら、それほど好評ではありません。


目先のことに囚われる、世知辛い時代に生かされている若者のニーズに、応えてやっていないのでしょう。


今、文科省からおりてくるものどもことどもは、すべて、くだらない、この国の教育をダメにするものです。


戦いたいけれど戦えない体制が、着々と築かれていることに、日々、嘆きの声を上げています。


教員仲間にも、おかしいことを「おかしい」と言わない人が増えました。おかしいことを「おかしい」と気づかぬ者も増えています。


それでもボクは、


おかしいことを「おかしい」と気づく力、おかしいことには「おかしい」と言わねばならないという思いを、


伝えたい授けたいと思っております。


仕事と、音楽と、


格好つけるなら、生き方を通して。


今のトコロ、


個人的には、恥ずかしくない人生だと思います。


うん。