しんきらり

学生の頃、「ガロ」という漫画雑誌を愛読していた。


大学によっては、まだ全共闘時代の反骨の残り火がぶすぶすと燃え残っていた頃のこと、
「民青」や「中核」がキャンパス内を跋扈していた頃のこと、
とある大学寮に住まっていると、地方都市では公務員試験に落とされた頃のことである。


全共闘時代に生まれた者が、全共闘時代の大学生が支持したそのムードを、追体験しているような感じがあったように思う。


仲の良かったひとつ年上の先輩は、漫画雑誌の編集者を志望していて、
青林堂」の初代社長兼編集長であった長井勝一氏の元を訪ねたが、「ウチにはキミを預かる余裕はない」と宥められて帰って来た。


蛭子能収や、泉昌之杉浦日向子根本敬丸尾末広、らの名はこの雑誌で知った。


決まった彼女がいるでなく、大学院に残って研究者になろうというでなく、そこで働きたい企業があるでなく、
さしたる目標があったわけでもない中、劇団を受けたりもしたけれど、バイトと芝居に生きる腹も座らぬ中、


人生の理不尽や、それやこれやから生じるアンニュイな感情や、実体のない優越感やら、得体の知れぬ劣等感を抱えていた身に、
彼彼女らの描く画やコトバは、俗から背を向けて、文化的ニンゲンでありたいなと思っている自分に心地が良かった。


やまだ紫の『しんきらり』も連載されていた。


結婚し、子を産み、育てるオンナ、妻であり母であるオンナの、日常を描いたこの作品が、
当時、二十代前半の独り身だったオレに、そこまで身近であったわけはないのだけれど、
結婚や、家庭や、家族や、親子や、夫婦というものに付随する、「揺らぎ」を描いて秀逸だったという記憶はあって、


先日、送られてきた「通販生活」カタログの中、やまだ紫『性悪猫』の抜粋載っていたの読んで、
『性悪猫』のみならず、90年代アタマに出された『やまだ紫作品集』全5巻(筑摩書房)手に入れて、読み直した。


昔読んだ、その時の記憶が蘇った。今とさほど変わらぬこと思って読んでいた30数年前の自分に感心した。


30数年後、


長井社長を訪ねた編集者志望の先輩は「学研」に入社し、漫画ではないが、出版部門の編集者になったものの、三十前にこの世の人ではなくなった。
やまだ紫も、すでにこの世の人ではない。


オレはと言えば、


当時はそんなことになろうとは思ってもみなかった高校教師になり、妻はいるけど子はおりませず、
そんなことになろうとは思ってもみなかった、バンドマンやっている。


恋とか愛とか、生とか死とか、そんなこと、まだよくわかんないまんま生きている。


ただ、相方とはお互いに、「夫」や「妻」の役割を演じているのでないことだけは確かです。


それはきっと、いいことなんだろう。


うん。