譲れないし譲らないこと

ヒトとして己の人生というヤツをどう生きるのか、


ヒトの集合体であるところの社会というものが、


そこで生きるすべてのヒト、そこで生きなければならないすべてのヒトにとって幸せなものであるために、何が課題であるのか、


ということについて、


日常、自身がそれを使っているところの、「言語」を以て思考するその方法を、共に学んでゆきましょうよ。


それは、出口の見えない作業ではあるけれど、それを求めることが、


学校教育における「国語」という教科科目の役割であり、目的だろう。と、常々ボクは思っております。


ですから、ボクは、


進学するそのための「国語の点数」を稼ぐ、その技術や方法を伝授することは、


必要ではあるけれど、最重要事項最優先事項であるとは思っておりません。悪いけど。


漱石ではないけれど、自分以外の誰かのことを考える余裕を持つことが、己の人生にとって大切なことだと思っております。


「国語」に限らず、「学ぶ」ことの目的はそこにあるんじゃないかな?


余裕のないヒト、余裕のないヒトの集まりである社会は、ギスギスするだけで、


そこで生きる己のためにもならないとボクは思っております。


昨年度末、このブログで触れた、諸悪の根元であるところの(笑)、「授業アンケート」なるものの結果が返ってきていましたが、


ボクは、数値として表された評価でいうと、今、目の前にしている生徒たちにとっては、


全教員の中で、平均より少し上のところに位置しているだけの、「並」の教員であるようですが、


教員としてのあり方生き方は、「並」ではないと自負しております。


そのあたりのことが、わかっているらしい、わかろうとしているらしい、


ボクの発するコトバに耳を澄まし、ボクの語ったことについて、自らのアタマで、自らのコトバで思考しようとしている若者に向けて、


これからも、ボクはコトバを発していくつもりです。


そんなボクのコトバに、耳を澄まし、己のアタマで、自らのコトバで思考しようとしている若者の方が、


多くの若者たちが当面欲している、必要としている、「点数」にも結びついているというのが、


皮肉といえば皮肉です。


にしても、


喉の調子が良くないと、己の仕事を行う上で最も大切な、コトバを発するということが満足にできない。


バンドマンとしても、己の思うような表現ができない。


というのが、


つらいわん。 わんわわん……。