3.11
地震の報を耳にした後、我々は、
その被害の甚大さを知らぬまま京都に向かい、夜、ライブ本番だった。
あれから3年……。
朝、時計代わりに見るテレビ、NHKのニュース、被災地に赴いたキャスターのレポート。
被災地被災者の「今」を報告。
しているのだけれど、
意図的なのだろう、「原発」そのものの現状や、今後のあり方には極力触れぬようにしている。
巷でも、「まだ反原発とか言ってるの?」という空気がないではない中、
3年後の今、この国では、
ヘイトデモに繰り出し、破廉恥な言説垂れ流すことに熱中している者どもや、
都知事選で、田母神を支持する若年層や、
社会への報復を口にしながら、レンタカーで暴走する者や、無差別に刃物を振り回す者や、
自らの子供に首輪をつけて拘束虐待する歳若い父親母親や、
図書館の「アンネの日記」を破りまくる者や、
「JAPANESE ONLY」の横断幕を旭日旗や日の丸とともに掲げるJリーグサポーターが、
跋扈している。
そういう者どもは昔からいたのだろうけれど、報道が偏っているせいなのかもしれないけれど、目立っている。
若年層の貧困化、社会階層の二分化が間違いなく進んでいる中、低所得にあえぐ、抑圧された人々のストレスが高まっているのか、
若者を中心とする、この国の人々の右傾化傾向はとどまるところを知らぬようで、
何の知識も論理の裏打ちもない、極右少年青年が身近にいるので、実感するのだけれど、
そういう者が、自立したオトナではなく、貧困家庭に育っている者でもなさそうなので、より根っこは深い。
若者の多くは、
百田尚樹の小説は読んでも、原作の映画は見ても、
大岡昇平やティム・オブライエンの小説は読まないし、原作の映画は見ない。
大岡昇平やティム・オブライエンの名前すら知らない。
百田氏は、ボクたちと同じ「戦争を知らない子供たち」、
「知らないこと」を、さも「知っている」かのように物語として語っている。
「知らないこと」を「知っている」ように書くことは小説の作法として間違ってはいない。
のだけれど、
それはあくまでもフィクションとして、エンタテイメントとしてそこにある。
多くの若者は、百田氏の小説を読んで、映画を見て、「本当の戦争」を教えられたかのように思っているのかもしれない。
百田氏は、ボクたちと同じように、「戦争」のことは何も知らない。
妹尾河童の『少年H』や、それを原作とした映画とは、その出自がまったく異なっている。
そのことをわかった上で、百田氏の作品は読むべきである。映画は観るべきである。
にもかかわらず、そのことがすっぽり抜け落ちた形で、小説が、映画が、
あの時代を、戦争を、ありのままに語っているように多くの人々は思わされている。
それが、決定的な誤りであり、まやかし。
「右」を標榜するのなら、百田氏や田母神氏の言うことだけでなく、鈴木邦男の言うことにも耳を傾けた方がよい。
いや、そもそも、若者の多くは、百田氏の小説にしたところで読んでいるかどうかが怪しいのだけれど、
真っ当なことを語る者の声が、
「非国民」とか「売国奴」という罵声の元にかき消されてしまう時代がやって来ないことを、
切望してやまない3.11
職場では、明日に控えた入試業務の打ち合わせ会議の中、震災のあった時間14:46に、全員で黙祷致しましょう、
という「儀式」が執り行われた。
東北に縁のあった自分だが、直接の知人で亡くなった人はいない中、
誰のために祈るのか、誰のために哀悼の意を表するのか、判然としない中、
この世に生きながら、無念の内にその生涯を終えることになったこの世界のすべての人々を思って、
黙祷に参加こそ致したのだけれど、
さっぱりわかんねぇ。 誰のため? 何のため?
関電前、原発ゼロ再稼働反対大抗議、行けなかったけれど、
3年どころか、ずーっと前からボクは、反核・反原発で、護憲派。
それは、この国が自分の生まれた愛すべき場所だから。
「愛国」とか「誇り」などようのことは、声高に叫びませんけれど……。