英雄にあこがれて
仕事上知ることになった、とある若者、4月からオレと同じ仕事をするとかしないとか、
本人から報告受けていないが、風の便りに聞く、御歳二十二歳がSNSに書いていたこと。
今日は永遠の0を観てきた。
多分、受け取り方は人それぞれかなりの違いがあるかもしれんけど、
個人的には訴えるもののあるいい作品やった。
久しぶりに序盤から涙流したかもしれん。
特に宮部久蔵の教官の立場としての生き様は考えさせることがたくさんあった。
あまり内容を言っちゃうと未だ観てない人に申し訳ないのでこれ以上は慎むが
未だ観てない方は是非観るべき。
特に俺等みたく戦争を体験してない、体験した人から直接話も聞いたことがない世代は観ないといけんと思うなあ。
戦後の教育は国の為に戦った者達を彼等とし、自分達とは全く関わりのないような悪として、反省的に考えるよう指導してきた感じがある。
システムとしての国と、心に想う国とを一緒こたにして。
ただ彼等の少なからず血を引いている我々は、彼等から引き続くストーリーを生きているようなもの。
決して他人事ではない。
別に過去を美化して敬えとは思わんが、彼等を排除し、無関心に陥った我々は今一度自らのHistoryを再考すべきなのではないか、とふと思う。
オレは、百田尚樹という人物がどういう人なのかを聞き知っているので『永遠の0』
原作を読む気にもならないし(今は、読んでみてやろうか?と、ちょっと思っているのだが)、
この時代に、観客動員凄まじいらしい映画も観る気になれないので、観てはいないから、
小説と映画についての論評をすることはできませんし致しませんが、
御歳二十二歳が書いていることについては、論評の余地があると思うので、一言。
戦後の教育は国の為に戦った者達を彼等とし、自分達とは全く関わりのないような悪として、反省的に考えるよう指導してきた感じがある。
システムとしての国と、心に想う国とを一緒こたにして。
というくだり、
何をもって、それそのように二十二歳の彼が思うのか思ったのか、詳しく聞かせて頂きたいものだと思った。
オレの父親は、齢13、4にして、ガッコの勉強が嫌いで、予科練に行った男である。
時は1941、2年。入ったはいいが、耳鼻咽喉関係関連に欠陥があったため、戦闘機には乗れないと言われ、
戦争が後少し長引いていたら、人間魚雷に乗り込んで、海の藻屑と消えていたはずのところ、終戦を迎えて戻ってきた男である。
なぜ、わざわざ自ら志願しなくても良かったところを、命を落とすことになるかも知れない軍隊に自ら進んで志願したのか?
その時、この国の戦争が何のために行われているのかいたのか?それを考えたことがあったのか?
そんなことどもを、今は亡き父親と話した結果、オレが知ったことは、
オレの父親は、
時代の流れの中で、自分が今直面している嫌だと思うものから逃れて、世間が認めてくれる楽な方へと身を翻そうとしただけだった。
戦争が是か非か、この国にとって何の意味があるのか?などようのことを、ほとんど何も考えてはいなかった。
ということ。
それに対する父親の、世の中の流れに決して上手く乗っていけるタイプではなかったはずの父親の、当時を振り返っての感想は、
時代の流れがそうだった。自分だけではない、みんながそう思い、そう動いていた。
ということ。
オレは、自分の父親を、自分をこの世に産み落とした男であるということについて、感謝はしているけれど、
そんなこんなのやり取りがあって以降は、敬意の対象にはなり得ない人として捉えておりました。実に残念なことではありますけれど。
オレは、この、
個人というものが、集団の論理に絡め取られながら、
愛する「家族」のために、愛する「国」のために、死ぬことを厭わないことこそが「美徳」である。
という、とんでもない、途轍もない欺瞞の中に、そう遠くない過去、この国があったという事実があって、
そんな過去を二度と再び繰り返すことのないことを願って、今の仕事をしているのですけれど、
過去には、欺瞞の中で、
それを欺瞞と気付かず死んでいった者どもや、欺瞞と気付くことのないまま生きて帰って来た者や、
欺瞞と知りながら、抗うこともできぬまま命を散らしてしまった者や、運良く戻って来た者もいたのだけれど、
戦前戦中の国策を、欺瞞と知りながら運良く戻って来た者のコトバの中に、
戦前戦中の真実が語られているとオレは思います。
百田尚樹氏が、近隣諸国との戦争を、乞い願っているとは、オレも思わない。
が、彼は、この国が近隣諸国から侮辱され貶められることが続くのは、
この国が、戦争をしない国として軍隊を保有していないことに起因すると考えている。
だから、憲法を改定して、この国は堂々と軍備すべきだと考えている。軍備こそが現実的な戦争回避であると思っている。
そして、ここが肝心なのだけれど、
現実に他国と戦うことが避けられ得ぬ時が来たならば、この国の誇りを守るため、国民は、この国のため、「死ぬる」くらいの覚悟はしなきゃいけない。
それが日本人として正しい態度である。と、思っている。
オレは、それそのことを日本人として、という以上に、ニンゲンとして正しい態度であるとは思わない。思えない。
どうして、実体のない誇りのために、個人を守ろうともしない国家のために、個人が死ななきゃならんのか?
そんなことは理想だと、笑わば笑え、
個人が傷つかぬために必要なことは、銃を捨てること。それ以外にはあり得ない。
戦後の教育は、国の為に戦った者達を彼等とし、自分達とは全く関わりのないような悪として、反省的に考える。
ような、指導などしてきていない。いませんよ。
「国のために戦う」などいうようなことの罷り通る、くだらないことのない世の中にしようよ、したいね。という教育を、多くの人はしてきたのです。
それを、
多くの若者が、教職に就こうというような若者が、
「国のために戦う」ということを、どこか「美しい」ことのように感じるようになっているらしい現在、
オレたちのやって来たことは、うまく機能できなかったのかも知れないね。
残念だけど……。
みんな、老いも若きも、
今こそ、
大岡昇平の著作を読むのがいいと思う。
ほとんど誰も読まない、読めない、のだろうけれど……。