誰のため?何のため?

現職場、「教務室」と呼ばれる場所には購読している新聞が2紙置かれている。


「朝日」と「読売」


教育関連のニュースにめぼしいものあれば、教頭が紙面をコピーして、部屋のホワイトボードに掲示しているが、


現職場の図書館は、新聞を管理し開架するという習慣がないようで、新聞はいつも「教務室」の机に無造作に放置されている。


悠長に新聞眺めている暇など滅多にないのだが、たまたま本日の2紙にひとわたり目を通して、わかっちゃいたことだが改めて驚いた。


成立させんと現政権が躍起になっている「特定秘密保護法案」について、


「朝日」は、全面的反対をキャンペーン的にぶち上げている。
パブコメ集めたら反対意見7割超だった中、「議席」という数の論理で採決に持って行こうとする暴挙を前に、オイラとしては、当然のことだと思う。


のだが、一方の「読売」
御用新聞とはいえ、メディアの端くれ、さすがに諸手を挙げての賛成は致していないようだが、
特定秘密保護法案」の話題は、あってなきがごとし。


日々、何を見、何を読んでいるのか? 誰の言葉に耳を傾け、誰の言葉を目にしているのか?


によって、人というのは結構簡単に左右されるのであろうなぁ。と、思いがけぬトコロで実感した。


普段、どの新聞がどういう立ち位置スタンスで、何をどのように報道しているのか?
ということを知らずに、サービスや値引きに釣られて購読する新聞を選んでいる家庭は少なくない。


まして、昨今では、ネットがあるという理由で、新聞を購読していない家庭も増えている。


オイラは、ほとんどまったく、テレビ番組を見ないのですけれど、


自我やポリシーなんてのを持たぬまま、のんべんだらりと眺めていたら、確実にその思考回路経路を誘導、洗脳されちまうんじゃないかと思う。
大宅壮一が「1億総白痴化」と言ったのは、1957年だったけれど、
民放がスポンサー獲得のため視聴率を稼ごうとするならば勢い、テレビ番組の内容は、「俗」に、「低き」に流れるわけで、


メディアとしての矜持などいうものを持ち合わせながら仕事をしている者は、もはやほとんど天然記念物、絶滅危惧種であると思われ、


新聞にしても、一般紙のスポーツ新聞化が進む一方の中、


どこの誰がまともな人なのかは、自分のアタマで判断し、まともな人の口から出るまともな言葉は、自分から手を伸ばして求めようと思っております。


その言葉は、どういう立場から、誰のために放たれたのか?
その行為は、誰のため、何のためになされたのか?


ということを見極めるのは、そんなに難しいことではないと思うんですけどね。