守るべきもの

以前、


教材との絡みから、授業中にアラン・レネの『夜と霧』を生徒たちに見せたことがある。
終わってから、生徒のひとりが、「どうしてこんなものを見なくちゃいけないんですか!」と、半泣きになって訴えて来た。


森鴎外高瀬舟』の朗読を聞いただけで、気分が悪くなり保健室に駆け込む者もいるくらいだから、
予想されるリアクションであった。


が、「どうして見なくちゃいけないのか?」という問いに対する答えは明白で、
「こういうことが現実に行われていた」ということを知っておくべきだと思ったから、
知らないまま過ごして欲しくなかったから、見ておいた方がいいと思ったからなのであった。


そして、「どう思う?」というこちらの問いかけに彼女は真摯な言葉で、自身の思いを綴った。


今なら、少なからず、家に戻ってから親に訴える生徒がいるだろう、それを聞いた親からクレームが来るかも知れない。たぶん来るだろう。
オレ自身は、そういうクレームがあったところで、それに対して毅然と反論する気概を持ち合わせているけれど、
オレと一緒になって、親に対して意見を戦わせてくれそうな者がいるかというと、実に心許ない。


松江市教委は昨年12月、漫画「はだしのゲン」について、「描写が過激だ」として市内の全小中学校に教師の許可なく自由に閲覧できない閉架措置を求め、それに対して全校が応じていたという。児童生徒への貸し出し禁止も要請していたという。
一部市民から「間違った歴史認識を植え付ける」として学校図書室から撤去を求める陳情が市議会に出され、一旦は不採択とされたが、市教委の判断で、校長会で要請したらしい。


クレームに対して、それが正当なものであるかどうかをまともに対峙しようという姿勢がそこにはない。
市教委の要請に対して、その決定に対して意見を述べ、拒否しようという校長もいない。
決定に対して、その責任を負う者も曖昧。言われたからやる。ただそれだけ。


なし崩しで何かが決められ、押し付けられたルールをなし崩しで受け入れる。


「教育の荒廃」ということ囁かれているけれど、その問題の核は、
「教育はサービスである」などようのことを臆面もなく言い出して、それを疑わぬ者が増えてしまったことにある。
顧客の意見をできるだけ吸い上げて、可能な限りそのニーズに応えていくことが重要だと本気で思っている。広言している。


無茶を押し通そうとしてくる連中に、押された方が簡単に折れてしまう。
何かの一線を守っているという自覚のある者が少なくなっている。
何かを守っているという自覚がないから、そのことが有している価値や必要性を毅然とした態度で説明できない。
勢い、矢面に立つことを嫌い避ける。そして、当面、当たり障りのなさそうなところで、責任を負わずに物事を決着しようとする。


「あなたの言っていることはおかしい。こちらはあなたの主張を呑むことができない」
それが言える者が少なくなっている。本来、矢面に立ってそれをやるべき「管理職」に腰の据わった者がいない。
そもそも、「何か」を守っているという自覚のある者は「管理職」にはならない。
己の守っているものが何もないか、守っているものを簡単に捨て去ることのできる者でなければ「管理職」になれない。


はだしのゲン」を図書館の奥にしまい込むことを決め、その決定に汲々として従った者どもの中には、
誰ひとりとして「何かを守っている」という自覚のある者がいなかったということ。


そして、それは恐らく、教育の現場だけに限ったことではなくなっている。


ま、「はだしのゲン」については、隠されると気になるのもニンゲンの性、
手にしようと思えばできないわけでなし、読んでやろう見てやろうというコドモが逆に増えるという効用があるかもしれないけれど……。