何のための改憲か

  大多数の幸福のために少数が犠牲になるのはやむを得ない。


戦後から現在に至るまで、沖縄は、その前提の中、苦難の道を歩んできた。


原子力発電というシステムもまた、この前提下で動いてきた。
遠距離を送電するロスを考慮すれば、電力を最も消費する都心部発電所を建設するのが最善であるのに、
都心部発電所を建設しないのはなぜかを考えれば、誰にでもわかる理屈である。


更に、
原発は、それが生み出す燃料廃棄物の処理について、確実な方法を持たず、未来の世代にその課題を背負わせたまま稼動し続けている。
そして、
原発の稼動には、放射線による健康被害を受ける可能性が極めて高い、原発作業員・労働者の存在が前提となっている。


沖縄や原発だけではない。金の絡んだところにある、ありとあらゆる物事が先の前提に従って動いてきた。
我々は、昔から反原発派だったボクも含めて、そういう状況状態にあぐらをかいて生活してきたし、来ている。


でも、この国の憲法は、押し付けられたものであれ、何であれ、
基本的人権や、法の下の平等や、公共の福祉の精神が、少数を切り捨てることはしない世の中にしましょうよ。
という良心を下支えしてきたし、武器を手に、他国の人々を殺めることをせず、70年近くの年月を我々に過ごさせてきた。


のだけれど、改憲を叫ぶ声、喧しい中、叫んでいる当事者達の思惑は、


 大多数の幸福のために少数が犠牲になるのはやむを得ない。


どころか、


 一部少数の人々の幸福のために、大多数の者どもが犠牲になるのは仕方がない。


ということ。


搾取できる者どもの労働力は、それを徹底的に使い回し、自身は国内外を身軽に行き来しながら、稼いだ金を国民に還元するでなく、自由に国外に持ち出すことのできる一部少数の者どもを「グローバル化」の名の下に優遇し、それ以外の大多数の者どもは一部企業家と国家のために滅私奉公させるための枠組みを作り上げる。


ということ。


国は、搾取され、滅私奉公させられる側の者たちのことなど知ったことではないし、面倒をみることもしません。自分のことは自分でやりなさい。
でも、あなたたちは他でもないこの国の国民ですから、この国と、一部のお金持ちたちのためにはしっかり働いてね。そこんとこよろしく。


という国にしよう、したい、します。ということを、改憲派は、その草稿の中でハッキリ謳っている。


とんでもないことだと思うのだが、


そこに何を期待しているのか、改憲に賛成する人々の数、増えているようで、


悲しく、そして、恐ろしい。