非暴力のすすめ

久々に授業4発。


50分間40人の顔色伺いながら、立ちっぱなしで、喋りっぱなし。かてて加えて、字も書きまくり。そいつを4発。
休み明け、改めて思うが、授業4発というの、結構ハード。へろへろになる。


こんなハードなことやったあとの夜に、ライブハウスでギター掻き鳴らして歌っている自分に驚嘆する。
週末、金曜の夜、またそんな驚嘆が待っている。わはは。


で、久々の授業終わったあるクラス、
年末の「メレメレ忘年会」を聞きに来てくれていたJKが、そばに来て、意味ありげに含み笑い。


オッサンに含み笑いするJK。オッサン、JKの含み笑いに参ったりは致しませんので、


「なんですねーん、その意味ありげな笑いは?」と問いかけると、


「センセって、ライブも教室も一緒ですね〜」


ですと。


そら、おんなじひとりのニンゲンですし、
仕事の時もライブの時も、訴えたいこと、表現したいことの軸はぶれていませんから、
基本は一緒なんですけんども、


ライブの時のオレと、授業の時のオレは違うやろ?


と、思うのですが、


どこがどう一緒なんでしょか?


400字以内で述べよ。いや、200字に負けておくから述べよ。


そして、


この業界の一員として言うべきなんだろうなということがあったので、簡単に。


 スポーツの世界は「結果」を求められる。「結果」を出すために「暴力」によって管理する組織というものを作り上げる者がいる。実は、その方が組織をまとめるという点で簡単だから。場所によっては今に至っても続いていたのだろう。そして、結果が出ていたから、そのやり方については誰も口を挟まなかった、或いは、挟めないというアトモスフェアがあったのだろう。
 そんな組織の中では、多くの者が切られ捨てられる。そういう世界で、(実は本人の資質や能力とは関係のないところでも)理不尽に切られたり捨てられたりすることを馬鹿馬鹿しいと思う者は、自らそういう組織から早々に離脱する。でも、中には、自らの選んだ組織からおいそれと離脱できない状況に自分を置いてしまう者、追い込んでしまう者もいる。そうなると、彼らはその場所でしか生きる道がない。
 「暴力」による管理と支配の構造の中に自分を追い込みながら、そういう組織の中で「結果」というものを手にしようという「共犯関係」がなければそういう組織は成り立たない。
 自身と自身の管理する若者との間に「共犯関係」が成立しているという前提を信じて発動していた「暴力」が、実は「若者」を深く傷つけ、死に向かわせた。というのが今回起こったことだと思う。
 「共犯関係」が築けていると信じて疑わなかった指導者は、彼を殴り叱咤することで、青年が奮い立ち成長すると思っていた。その世界が自身の生きる場所、そこでしか自身の生きる場所はないと思った青年は、殴られ叱咤される中、自分はその世界では生きていけないのだと思った。彼には他に生きていく場所はいくらでもあったのに、そう思うしかなかった。逃げ出す強さや、指導者に反撥抵抗する強さが彼にはなかった。でも、それは彼の非ではない。


言えることはひとつ。


 いかなる場面状況にあっても、身体的なものであれ言葉であれ、「暴力」は教育や指導には馴染まないし、あってはならない。
 「殴らないとわからないこともある」などようのこと言う者は未だにいるけれど、それは「わかる」のではなく、「暴力」を恐れて従うことを選ぶニンゲンになるに過ぎない。「暴力」によって支配することで「組織」が、「チーム」が、強くなるくらいなら、「弱い」ままの方がいい。


そういう構造を拭わない現実の中で、
勝者の栄光をただ讃えたり、指導者の力量を誉めそやしたりする状況があるからボクは、


団体競技や、チームプレイというものが、胡散臭くて、苦手である。
それって、「軍隊」と一緒ですやん。


あ、でも、今は「軍隊」作りたがってんですよね、この国の人々は。
じゃ、多くの人にとってありなんじゃないの、理不尽な「暴力」は?


国家権力って、いわゆるひとつの暴力装置ですから。
組織にとって都合の悪いもの、使えないものって、「暴力」によって間引きすりゃいーってことになりますよぉ。