コドモはオトナの縮図

街のあちこちにある「児童公園」というヤツ、
オイラがガキの頃にあっちゃこっちゃに作られていったのだが、


それらが拵えられる前も後も、ガキんちょにとっては、至る所が遊び場であった。
路地が野球場だったのはもちろんのこと、軒を連ねる家々の屋根の上も、電信柱経由で伝って行ける運動場だった。
ドブ川は好んで泳ぎたい場所ではなかったけれど、川にかかる橋の下に空けられた側溝は、未知の世界に続くトンネルだったし、
打ちっ放しのゴルフ場にある汚い池は、飛んでくるゴルフボールをかいくぐりながら、ザリガニを捕り、ロストボールを拾い集める遊び場だった。
列車が通る鉄橋の下は、命を賭けて挑む壮大な「雲梯」だった。


「公園」に設えられた滑り台や、ジャングルジムや、回転遊具や、シーソーや、ブランコを、本来そのままの用途で遊ぶ者は少数で、


滑り台は、下から駆け上がって、上にいる者を下に突き落とすためのものだったし、
回転遊具は、それに捕まったまま回転数を限界まで上げて、ブンブン振り回されながら、手を離してみたりするものだったし、
ブランコは、どの角度まで漕げるかを競い、その最大傾斜角において宙に飛び出すためのものだった。


そんな遊びの中、実際に大怪我をしたヤツもいるし、命を落としたヤツもいたけれど、設置した者の管理義務を問う者はどこにもいなかった。
親が見聞きしたら青ざめるであろう遊びを日々繰り返しながら、オレたちは育った。


今のガキんちょは、どーなんだろーな? と、思う。


オレたちオトナの目の届かないトコロで、オレたちがガキの頃と同じような遊びを日々繰り返しているのだろうか?
下手すりゃ命に関わるような「遊び」に、うつつを抜かしながら日々を生きているのだろうか?


確証はないが、そうではなかろう、という気がする。
オトナたちの、極端なまでの「庇護」の視線と、その裏にある「責任回避」の立ち居振る舞いによって、「とんでもない遊び」は、オレたちがガキんちょだったころに比べて、極度なまでに圧殺封印されているのではないか?


そして、


圧殺され、封印されてしまい、発する場所のないエネルギーが、
オトナたちの目の届かぬトコロで、或いは、届いていても見て見ぬ振りをするオトナたちの視線の横で、


自分とは異質で相容れないものに向かって、かつてはなかったような陰湿極まりない形を取りながら、発せられているような気がする。


ガキんちょの中に、


「そういうことは面白くないからやめとこーぜ!」
と言って、「そうだな」と周囲が納得するようなリーダーもなく、言える状況もなく、


「くだらないことはやめようぜ!」
と、正面切って言えるオトナ、言うオトナも少ない。


「鷹揚に構える」というコトバの意味すらわからず、「責任」を取ることを嫌い、矢面に立つことを嫌い、それでいながら、他人を侮り、あら探しをして足を引っ張りながら、自身の社会的地位や立場や既得権益を守りたいだけの連中が、跋扈している憚っている。


親を見て子は育つ。コドモの社会は、オトナの社会の縮図。


だよ。間違いなく……。