キミは傲慢が好きかい?

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  政治の教育現場への介入
  教育現場における国歌斉唱強制にまつわるあれこれ
  著名芸能人家族の生活保護受給にまつわるあれこれ
  現職公務員の組合活動についての調査あれこれ
  現職公務員の刺青の有無についての調査あれこれ
  著名文化人に対する「反日」バッシングの数々
  ネット上に飛び交う、中国、韓国、北朝鮮の人々に対する誹謗や中傷の数々
  大飯原発再稼働にまつわるあれこれ
  あれこれあれこれ……、


こういう時代を生きながら、何らの息苦しさをも感じないという人もいるようなので、
この先、己の身辺がどうなっていくのかを憂慮しない想像力のなさというものに逆に感心するのだが、


それは、


以前から言い続けている「寛容の精神」の欠如欠落と同時に、
己の気に入らないものはすべて消えてしまえばよい消してしまえばよい貶めたいという、


「傲慢」を、


多くの者が支持して憚らなくなっていることに、その因があるように思う。


職場を変わって二ヶ月余り。痛感するのは、
先の職場に籍を置いていた子らの、少なくない数の親たちが、
「学校」というものを、自分たちが日々利用する「スーパー」や「コンビニ」や「ディスカウントショップ」や「ファストフード店」のような「お店」と同列同等に考えており、それを利用する「客」のように振る舞っていたということ。


自らの金で物を買う相手に対しても、無理難題を吹っかけることは決してないオレは、たとえ理不尽な対応をされた場合も、努めて常識的かつ紳士的にやりとりを進めようとするのであるけれど、そして、そういう対応を相手に舐められることもないではなかったけれど、


そういう親たちにとって、「客」は神様であるらしく、「店」に対しては一方的に要求する立場にあるらしく、
日常的に、「傲慢さ」や「横柄さ」をいかんなく発揮していたのだろうと想像される。


まして、公教育の現場で働いている教職員は、彼らにとって、自分たちの金で(と言いつつ、税金を納めているかどうかが怪しい人も多かったが)のうのうと暮らしているいけ好かないヤツであったわけで、事ある毎に理不尽な要求を突きつけていた。


店に対して、客である己の要求をぞんざいな言葉と不遜な態度で押し通してきたように、「傲慢」によって、すべては意のままになると考えていた節がある。
相手に非や隙があれば尚のこと、「傲慢」の勢いは激しくなった。相手の揚げた足を取ることで利を得ようとしていた。


幸いにもオレは、非や隙を相手に見せることは一度もなかったのだけれど、彼らは非や隙のない相手に対しても「傲慢」の手を休めることはなかった。


そういう人たちの子らはまた、そういう親を見て育っていた。
反面教師として育つことはほとんどなく、親の生き方考え方を見て、自分たちもまたそんなオトナに一歩一歩近づいていた。


そういう親や子らと正面から関わった3年間は、振り返るだけで疲弊するのだが、それが紛れもなくオレの仕事だった。


昔話をしたいわけではない、


今のこの社会の流れの中でオレは、


かつて関わったことのある、そして、関わらないですむならば決して関わりたくないような「傲慢」な人々が、もはや少数派ではなくなって、


「傲慢」な人間を押し戴きながら、


「消してしまえ無くしてしまえ貶めてしまえ」と、叫ぶ声が日々大きくなっているように思えてならない。


「傲慢」が、自由で平等な風通しの良い社会を築くはずはない。


「強い傲慢」が、弱い者の味方に立つことは決してない。断じてない。


「弱い傲慢」が押し上げた「強い傲慢」によって、この社会がどうしようもない場所にならぬことを心から願うばかり。


今こそ、「自由」や「平等」や「平和」というのがどういうものなのか、自分のアタマで考えてみませんか?