誰が殺したクックロビン?

朝、始業前の数分、「読書の時間」というのを設けている。


各教科科目、日々、授業中に小テストなんちゅの行っておるし、予習やらにも時間がかかる生徒さんたち、
なんだかんだと連絡などせにゃならん担任の方々、


ゆっくり読書などしているさせている暇などありゃせんです。てな感じもあるのだけれど、
それなりに読書に勤しんでいる連中もいて、本は読むべし。


そんな中、


つらつら見回すに、彼彼女らに人気のある作家のイチニを争うのは、東野圭吾伊坂幸太郎


東野圭吾はそれほど読んじゃいねーのですが、
出自がオイラと重なるところもあって、その興味関心も手伝うからか、伊坂はんの作品はそれなりに読んでいる。
今、某新聞夕刊に連載しているところの現在進行形の作品も読んでいる。
原作の映画もそこそこ観ている。よくできていると思う作品も多い。


のだけんども、


前からずっと、彼の作品にまつわる違和感というか据わりの悪さってのあって、その感覚が何に由来するのかずーっと考えていたことが、最近になってわかってきた。


というか、最初からわかっていたのだけれど、ハッキリしてきた。


伊坂氏の作品に対する最大の違和感、それは、


ニンゲンという生き物に対する、信頼というか信用というか、その認識前提考え方の根本的なところがオレとは決定的に相異なる。ということ。


エンタメ系の小説映画には、昔っから善悪ちゅ線引きするとわかりやすいので、「いいヤツ」と「わるいヤツ」が登場する。
「いいヤツ」が頑張って「わるいヤツ」を懲らしめてくれると、読んでいる側見ている側はたいへん気色がよろしい。


オレにしたところで、ダーティ・ハリーも仕置き人も好物である。
ブロンソン主演の「狼よさらば」(マイケル・ウイナー/1974)はインパクトがあった。
ジョディー・フォスターの「ブレイブ・ワン」(ニール・ジョーダン/2007)にも、共感しないわけではない。


のだが、なにが「いいヤツ」でなにが「わるいヤツ」なのか、判然とせぬのが現実の社会なのであって、
現実にも、「こんなヤツおらんければいいのに」と個人的に思うヤツがいないではないのだけれど、
そういうヤツも引っくるめて、ニンゲンなのである。


善悪やら要不要に簡単に線引いて、こいつはこっち、こいつはあっちと分類することなど不可能なのである。
デ・ニーロの「タクシー・ドライバー」(マーティン・スコセシ/1976)のように、善やら悪ちゅのは簡単に線引きすることなどできないのである。


なのだが、ニンゲンちゅのは歴史的にそういうことを強行してきたことがあるわけで、
昨今の我が国、その手の線引きをして、あっち側に分類したされたニンゲンを、こっち側のニンゲンが寄ってたかって完膚無きまでに叩きのめすという風潮があるのだけれど、いつ何時、どんな形で、自分自身が、あっち側のニンゲンに分類されてしまうかも知れないのだよという危機意識が、全体に脆弱希薄になっているように思われて、


そういうこと本気でやると、ヒトラーポルポトみたいなことになっちゃうよ。ということをオイラはそこそこ本気で憂えております。


で、伊坂はんなのですが、


彼の作品には、「生きていても仕方のないヤツ」、「生きているべきではないヤツ」、もっと言えば、「消えてなくなってしまった方がいいヤツ」というのが必ず登場する。エンタメに徹するには、そうした方が読者の溜飲が下がるという計算からなのかと思う節もあったが、どうやら、こういう発想思考というのは、作家自身が本気でそう思っているらしいことが窺い知れて来たのである。


  "この世にはいなくてもいいニンゲンがいる"


このテーゼが、「伊坂ワールド」の基調をなしている。
やってしまえ、消してしまえという鬱屈逼塞した思いが、「伊坂ワールド」を支えている。


たぶん、これがオレの感じる違和感や据わりの悪さなのだと思う。
「重力ピエロ」も「アヒルと鴨のコインロッカー」も、よくできた作品だとは思うけれど、


  "この世にはいなくてもいいニンゲンなどいない"


と、思っているオレ、
たとえそれが、超やら極がいくつも冠されるような、どこからどう見ても許すことのできない悪人だとしても、
フィクションの世界はともかく、現実の世界で、「消してしまう」べきだとは思わない。
同じ理由から、「死刑制度」にも、オレは反対である。
この国の、8割5分超の人々が「死刑制度」維持存続派であるようですが……。


  "生れて、すみません" と "この世にはいなくてもいいニンゲンがいる"


このふたつの間にある懸隔は大きい。


伊坂氏の作品、よくできたエンタメだとは思うが、読者のひとりではあるが、


「文学」じゃないかも。