民意の正体
阿部謹也の『「世間」とは何か』の中に、
漱石の『坊っちゃん』が、今も読み継がれている理由を説いている箇所がある。
『坊っちゃん』は、「学校」という場を「世間」に仮託して書かれた作品である。いわゆる「世間」というものを象徴する存在として、「赤シャツ」に代表されるオトナたちが登場する。
「世間を知る」オトナたちは、面倒なことには自ら首を突っ込まず、矢面に立たず、責任の所在を曖昧にし、己の上にいる者の顔色を窺いながら、長いものに巻かれ、打たれる杭にはならぬように立ち回る。それが「賢い生き方」だと信じている。
そんな「オトナ」に牙をむき楯を突く「世間知らず」の「坊っちゃん」を、「オトナ」たちは扱いかねる。
読者は、そんな「坊っちゃん」に肩入れし、快哉を叫び、坊っちゃんの言動に溜飲を下げる。
のだが、
一方で、そんな読者自身は「世間に対する無力感」を抱いている。自分自身もまた「赤シャツ」の仲間であることを内心自覚している。
自身が「坊っちゃん」になれないことを自覚しており、自身のなし得ないことをやろうとする人間であるからこそ、「坊っちゃん」の側に立つのである。
なるほど。
新宿署に勤務する鮫島警部は、キャリアとして入庁したエリートでありながら、公安部内の暗闘に関する門外不出の重大な秘密を握ったことによって、出世コースから外れ、組織から孤立、微塵も揺れ動くことのない正義感と行動力で、孤高の存在として複雑な事件を解決していく。
この小説がベストセラーとして常に続刊を待たれているのも、読者が『坊っちゃん』と同じ期待を「鮫島」に抱いているからに他ならない。
「汚い世間」と闘う「鮫島」に溜飲を下げるのは、自分自身は「世間に対して無力」であるが、「鮫島」のような男に憧れるから。「世間」は汚いが自身はそれに従うしかないと思っているから。そうしなければ、「世間」からはじかれると思うから。
『坊っちゃん』を読む者も、『新宿鮫』を読む者も、
正しく美しいのは、「坊っちゃん」であり「鮫島」だと思っている。
しかし、自分では「坊っちゃん」にも「鮫島」にもなろうとはしない。
内心では嫌いながら、その一員であることによって守られているという安心感を抱けていた「世間」は、もはや自身を守ってくれるかどうかすら不透明な時代になった。「窓際族」は「会社」に飼ってもらえない時代になった。厳しい競争を勝ち抜けと死ぬまで尻を叩かれるようになった。
そうなって、
今までは大目に見ていた「汚い世間」でぬくぬくしている連中を、許せない人々が増えた。ぬくぬくしているのは実は一部の役人でしかないのに、十把一絡げに「公務員は悪」だ、こんな時代になったのは「教育」が間違っていたからだと言う者が増えた。
「汚い世間」を何とかしなければならない。と、人々は思うようになった。
自分自身は「坊っちゃん」にも「鮫島」にもなれない人々の多くが、目の前に現れた発言力と行動力のありそうな男を、「坊っちゃん」だ「鮫島」だと思った。この男なら「汚い世間」を変えてくれそうだと思った。
その男が、「個人」というものにまったく敬意を払うことのない、「人権意識」というものの欠片もない、実は「汚い世間」より以上に危うい人間であるということに気付かずに。
それが今の「民意」というものの正体であると思って間違いないとオレは思う。
愚かな民意が、誤ったヒーローを担ぎ上げた後に待っているのは、「個人」の尊厳に目を向けない「強固な権力」。
微力であっても、自らが「坊っちゃん」に「鮫島」になろうと考えて今までの人生を生きてきた。
職を追われた「坊つちゃん」を敗北者だと言う者がいる。出世コースから足を踏み外した「鮫島」を愚か者だと思う者もいる。
でもオレは、
出世コースから外れようが、たとえ職を追われようが、
オレの生き方は曲げないつもり。
それを「世間知らず」というヤツには言わせておけばよい。
そういう連中がきっと「民意」というヤツなのだ。
「汚い世間」や「人権意識に欠けた権力者」に尻尾振ってるヤツは、
音楽やら芸術やら口にしない方がいいと思う。
「汚い世間」にも、「人権意識に欠けた権力者」にも、オレはどちらにも与しない。
だからロックやってんです。はい。