わーびーさーびー

夏の高校野球の地区予選大会が近づくと、


ウチの購読しておるところの新聞は、その主催をしておるので、
出場する全校の紹介を載せる。


主将やらマネージャーに作らせた「川柳」を載せているのだが、


これが酷い。酷いと言うより無惨……。
「川柳」はおろか、「交通標語」にも覚束ない。


言葉を操るセンスの欠片も感じない。


勉強がよくおできになる高校も、そこそこの高校も、だめだめの高校も、何処も同じく「無惨」。


前任校の「国語表現」の授業で、「俳句」を取り上げることもあって、
著名な俳句読んで、その俳句に詠まれた情景光景心情を解釈してみることから初めて、最後に、実作。


していたのだが、


これがとっても、情けないまでに酷かった。


ちなみに前任校は、勉強がよくおできになる生徒たちの通う高校であって、「国語表現」は選択科目。自分の受験したい大学の入試科目に「小論文」なるものがあるから、その対策と考えて受講したヤツもいないではなかったが、曲がりなりにも文章を読んだり書いたりするのが好きな部類の連中が多く選択しておった。


受験対策を期待していた連中にしてみれば、「俳句」やら「短歌」やら「英語の歌に日本語の歌詞を載っけてみる」やら、やらされるとは思っても見なかったのかも知れんが、そういうことを面白がれる間口の広さもなしに、まともな「小論文」など書けるはずもないのだが、


進学校の多くでは、「農産物の自給率について」なら、「少子高齢化について」なら、「脳死と臓器移植について」なら、これこれこう書きましょうなどようのことを、「国語表現」と名を冠した授業で毎度毎度やっておるわけで、自分のアタマで物を考えないバカが、バカを再生産している構図は実におめでたい。


と、昔のこと思い出して腹が立ったので話が逸れたが、


「俳句」や「短歌」というヤツ、作る以前にその「味わい」というのを理解するのに「壁」があるのだろうと思う。


かつて、


書かれた日本語というものは一般的な文章であっても、いらないものなくても通じるものは極力削るところで成立していた。そのため、主語がない。助詞がない。
「や、かな、けり、ぞ」などの「切れ字」は、「言わずもがな」のものを、言わずにすますために使われる。
「切れ字」は、引き算の美学である「俳句」にあっての重要アイテム。


現代人、若者によらず、「切れ字」が使えない。使えないのは、それらの言葉が、自身の中に生きた言葉として息づいていないから。


一方で、「切れ字」が使えないのに、少ない音数の中、省ける助詞を省こうとしない。


そこで、見るも無惨な言葉の羅列がそこに立ち現れる。


高校生のこしらえた「川柳」見ていると、


彼らが、「わび」とか「さび」という世界にはまったく縁のないところで生きていること突きつけられているよーで、


そういう世界と縁のない人たちの方が、この世の主流なんだよね。


と、気付かされて、


脱力……。