虚と実と

朝日新聞の「歌壇」に入選を重ねている、とある歌詠みが話題になっている。


  (柔らかい時計)を持ちて炊き出しのカレーの列に二時間並ぶ
  鍵持たぬ生活に慣れ年を越す今さら何を脱ぎ棄てたのか
  水葬に物語などあるならばわれの最期は水葬で良し
  パンのみで生きるにあらず配給のパンのみみにて一日生きる
  日産をリストラになり流れ来たるブラジル人と隣りて眠る
  親不孝通りと言へど親もなく親にもなれずただ立ち尽くす
  ホームレス襲撃事件と派遣村並ぶ紙面に缶珈琲零(こぼ)す
  美しき星座の下眠りゆくグレコの唄を聴くは幻
  温かき缶コーヒーを抱きて寝て覚めれば冷えしコーヒー啜る
  百均の「赤いきつね」と迷ひつつ月曜だけ買う朝日新聞
  哀しきは寿町と言ふ地名長者町さへ隣りにはあり


住所の記載がないために、投稿謝礼も応援の声も届けることができないと連絡を求めた朝日新聞2月16日付朝刊の記事を受けて、「公田耕一」と名乗る彼の新聞社への返信は、


  ホームレス歌人の記事を他人事のやうに読めども涙零(こぼ)しぬ


添え書きに「皆様の御厚意本当に、ありがたく思います。が、連絡をとる勇気は、今の私には、ありません。誠に、すみません」とあったという。


彼の詠む歌が、高度な技巧と、優れた知性と教養に裏打ちされたものであることは、誰の目にも明らかなのだが、詠まれている状況内容から察するに、公田氏が、本当にホームレスである可能性もまた高い。


高度な知性と教養、言語感覚を有しながら、ホームレスとして這うように日々を生きている、生きざるを得ない現実があることの悲劇を思う。


そして、彼がホームレスに身を落としていなければ、この一連の秀作は生まれなかったであろうことを鑑みる時、芸術というものの孕んでいる冷徹を思う。


放哉も、山頭火も、彼らがあれほどに不器用な人間でなかったならば、彼らの知性や才能は、言語芸術として花開くことはなかったわけだから。


しかし一方で、
公田耕一氏は実はホームレスではなく、社会的経済的に然るべき地位にある人物であり、ホームレスに仮託して、ホームレスの日常を新聞投稿短歌という文学形式の上に構築してみた、実験的なフィクションである。という可能性も否定することができない。


ただ、もしそうであったとしても、公田耕一氏の作品群を、文学的価値の何もないただの悪ふざけと切り捨ててしまうことはできないとオレは思う。


「虚実皮膜」こそが文学や芸術の真骨頂なのだから。