全体主義

と聞けば、眉を顰める人が多いと思う。

のだが、その実、この国の「学校」という場所では、
その「全体主義」が幅を利かせている。

多くの人は、それが当たり前だと思わせられる環境に置かれると、それを甘受してその環境の中で己の幸福を求めようとするらしい。
己の置かれている状況や環境や、それを司っているシステムそのものを「おっかしいんじゃねーの?」と思う人間は少数派。

学校における「全体主義」を、「変だ」と思うことさらさらなく、寧ろその中で活躍の場を与えられ、楽しい思いをした人間が、教育の現場には多数いる。
というか、ほとんどがそーなんじゃねーの?と、思うことしばしば。

小学校や中学校という公教育の現場は、そういう人たちによって動かされている。
高校になると、幾分はましとはいえ、それでも、己のやっていることが「全体主義」だということに思い至ることのないまま、

「社会で生きるには、集団の中、己のイヤなことだって辛抱しなきゃならんことを学ぶことが必要だからね」
と、考えている。

目的意識を同じくする者どもが集まり、その目的に向かって協調すること。

そのことと、

脈絡なく集められた人間どもを、何の脈絡もない、外から与えられただけの目的目標に向かって一致団結させること。

とは、全く別のこと。

便宜的に囲われた、「クラス」という名の集団に、
「運動会」やら、「文化祭」やら、「合唱コンクール」やらいうもので、
お隣の「クラス」という名の集団と競わせることに何の意味があるのか?

あるというなら、オレが納得できるように誰か説明しておくれ。

たかが、数名で構成された「バンド」というものだって、
目的意識にちょっとしたズレが生じただけで、空中分解するんだぜ。

「仲良くやれ」と言われても、できんものはできんのです。

「クラス」という元々実体のない集団を、「家族みたいなもん」と称して、お隣の「クラス」と競わせることの意味は、

取り立てて意味のない「国家」やら「民族」やらに対して、思考を停止させて忠誠を誓わせるための訓練じゃねーの?

などいうことを、職場でのちょっとした雑談で確信したオレ、どこに行ってもマイノリティー

こんな話は、通じない人には永久に通じねー。やれやれ。