改悪を改正という欺瞞
2020年度から、大学入試制度が変わる。
ってーんで、
次年度使用する教科書選定を控えて、売り込みにやって来る、教科書副読本を編集している各出版社の営業の方々
「新テストに向けて、貴校では、どんな対策をなさってますか?」と、真顔で訊いてくる、尋ねてくる。
のですが、
新テストに向けての試行模擬問題、見ている、やらせているので、こちとらわかっている。
極論すれば、いや、極論でもないので、端的に言うと、
「家電製品のマニュアルを読んで、それを理解できる母語活用能力。お役所が発行する文書を読んで、それを理解できる母語活用能力」
を求めるだけに過ぎなくなっている。実にくだらない。
そんなくだらないことのために、「対策」も何もありゃしない。
今までやって来たことの方が、ずーっと意味があるし、高度なことをやっている。
ことを、ベテランの、わけのわかった教師であればあるほどわかっている。
にもかかわらず、受験産業某社が出して配布しているパンフレットには、
「これからの教育は、生徒自らが進んで考える、アクティブ・ラーニングが必須です。これがその実践です」
などようのこと、某所某地で実践されたという授業内容が、得意げに紹介されている。
『更級日記』の、教科書の紙面にして2ページにも満たないその冒頭部だけを、
8時間かけて、あれやこれやと話し合いさせて発表し合う授業。
そりゃ、それだけ中身の薄いことを、わいわいがやがや遊ばしていたら、生徒たち、退屈はしないだろ。何となく楽しいだろ。
でも、そんな生徒らに与える知識の量は、果てしなく限りなく小さい。
一年間に、授業というの、何時間あると思ってますの? たった2ページの古文読むのに、何時間かけますの?
茶番にもほどがある。
そんな、茶番を、「これからの教育」などようの文言で粉飾、喧伝。
出版社は、営利事業、商売ですから、「新テスト」導入にあたって、それを利用し、その波に乗って如何に儲けるか稼ぐことができるか?
を、考えねばならないということは、わからないでもない。
でも、お上から降ってきたくだらないものどもを矯めつ眇めつして、
「これはくだらないんじゃないかな?ヤバイんじゃないかな?」と、思う態度のひとつぐらいはあってもいいのではないかとも思う。
「現代文の教科書選定にあたって、どんなところを重視されてますか?」という営業マンの質問に対して、
「自由と平和と平等と人権という、「リベラル」の精神を伝える最後の砦が、「現代文」の教科書に所収されている文章だと思っておりますから、
そういう素敵な文章がどれだけ詰め込まれているかということを基準に選定しておりますよ」というボクの返答を受けて、
営業マンのアタマの上に、「?」マークが浮かんだのを、ボクは見逃しませんでした。
この国の教育、
戦後の自由教育、平和教育が間違いだった。知識偏重の詰め込みが間違いだった。ということが叫ばれ、改正改正!と大騒ぎ。
なのですが、
確実に、疑う余地のないところで、
自身のアタマでものを考える人を作りたいのではなく、
上から言われたことに対して、素直に「あーそーなんだー」と、それを受け入れ、同調圧力に抵抗する力のない人間を拵えることに力点が置かれている。
権威権力を持つ者が、自身の都合の良い世の中にするためにそれを行いたがっている。
人間、単純じゃないので、それはそれで、失敗に終わることを願っているし、
そう簡単に、ことは運ばないとは思うのですけれど、
自分のアタマでものを考えず、巻き込まれるだけの者が増えていることを日々目の当たりにするのは、
腹立たしく、悲しい。