平和72歳末娘まだ1歳4ヶ月

お盆ですから、


迎え火は焚いていないのですけれど、



みちろーが戻って来てるかな?


と、思いつつ、


寂しいからって、まだ、連れてっちゃダメだよ。


と、



末娘の心配。


にゃんこセンセ、昨日は「まだ今は無理」と言ってた、抗生剤とステロイドを投与。


ギリギリなんだろね……。


ちっちゃいけれど、そのへんのクズどもよりは、ずーっと意味のある命なのです。


何とか、自力でゴハンを食べられるようになってくれたらと願うばかり。


で、敗戦(毎年言ってますが、敗戦です。終戦と言って誤魔化すな)から72年目の今日、


クズは、追悼式で、あくまでも「加害責任」と、それに対する「反省」を口にしませんでした。


「私たちが享受している平和と繁栄は、かけがえのない命を捧げられた皆様の尊い犠牲の上に築かれた」とは言いましたが。


尊い犠牲」など、なければ良かったのに、とは思っていないんでしょうね。


そんな、今日のこの日に、間違いなく、確実に言えることを、簡潔に。


反戦や平和を語る時、


「国を守る」とか、「この国のために」などようのことを口走る者たちのコトバは、


この国に限らず、個としての人間にとって、何ひとつ重要でマトモなものはありません。すべて空虚な妄言です。


彼らの口走る「国」の向こうに、その「土地」に住まう「民」の姿は、まずもって存在していません。


彼らの口走る「国」は、「風土」でも、「民族」でも、「言語」でも、「風俗」でも、「習慣」でも、「文化」でもなく、


自身の富か、自己肯定のための道具でしかありません。


彼らの口走る、「大切なこの国を自分たちで守らねば」。


という声を人々が鵜呑みにした時、


平和の寿命は、そこで尽きることになると、ボクは思います。