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その昔、若者は怒っていた。


ボクが大学生だった頃、ボク自身はいわゆる学生運動というものに参与してはいなかったけれど、
まだ、活動家と呼ばれる連中は、そこここに存在していた。学内には「立て看」が乱立していた。


と言っても、全共闘運動・安保闘争ベトナム戦争の時代に学生だった世代は、ボクよりも十以上も上だから、


その頃にはもう、


ボクの大学の他、学生運動の火が燻っていたのは、横浜国立大、京都大、大阪市立大ぐらいになっていたように思う。


学生寮で学生生活を始めた時、
ちゃちな扉を幾重にも張り巡らして施錠している先輩は、すでに少数となっていた中核派だった。


中核、革マル、民青などいう用語が日常の中で飛び交っていた。勝共連合との小競り合いが始終あった。
大学の講義が、活動家たちによって中断中止されることも少なくなかった。
革マルの知り合いこそいなかったが、その他は、知人の誰かしらがそうであるというのを知っていた。


学生運動に明け暮れていた連中と、その思想を、全面的に肯定する気はないけれど、
彼らが、直接的抗議行動を取らなかったボク以上に、いろんなことどもに怒っているのは間違いなかった。


もちろん、当時も、怒れる若者は、怒ることで、いろんな損を強いられていた。


地元の地方都市における公務員試験や教員採用試験では、活動家が多く住まっている学生寮に住んでいた者は、
自身は学生運動に参画していなかったにもかかわらず、住所がそこであるというそれそのことだけで不合格になっていた。


ボクより年長だった全共闘世代の多くは、地元である地方都市を離れ、大阪あたりで公務員や教員となっていた。
そういう人たちを教壇に立たせるだけの自由度が、都市にはあった。


暴力も辞さずとした革命家を匿うことを正義だと支持するつもりはないし、
若き日に、何に対して闘っていたのか窺い知ることもできない、掌を返した生き方をしている人もいないではなかったけれど、


彼らの多くは、教壇で、平和と自由について語っていた。
知識や知性というのは、平和と自由のために用いるものだということを語っていた。


今、


平和や自由を語ることが、共に考えることが、自分の仕事だと思っている教員は少なくなっている。


人々は、若者は、その心の多くを、仲良くすることに傾けている。
嫌ったり、嫌われたりすることを、必要以上に恐れながら生きている。
嫌なこと、考えたくないことには、面と向かって対峙しないように努めている。


ひとりぼっちで飯を食うことが怖くて、言いたいことや思っていることを腹の中に納めている。
「キライだ」とか、「そういうのはおかしくないか?」と、言うべき相手、言うべきものにダメを出すことができずにいる。
その一方で、ダメを出す時は、集団になって熱狂の中で排除しにかかる。


もう、考えることからも降りてしまっているのかも知れない。


いきおい、そういう積もり積もった感情は、ぶつけても構わないと思う相手、嫌われてもどうってことないぜ、という対象に向かうことになる。


昨今の「嫌中嫌韓感情」の高まりや、「ヘイト・スピーチ」なるものの根元は、


そのあたりにあるのではないかとボクは勘ぐっている。


怒るべきことは別にあるのに、どうしてみんな、ここまで怒らないのだろう、平気なのだろう、と、


「この子は大きくなったらきっと過激派になります」と、
小学生の時、アタマのネジの外れた担任教師から言われたことのあるボクは、
担任教師の予想は外れて、残念ながら、過激派にはならなかったし、
特定の宗教宗派にも、特定の政党政治団体にも、教職員組合にも属したことのないボクは、


思うのだった。