狂っているのは……

http://www.iza.ne.jp/kiji/events/news/140412/evt14041216350010-n1.html


こういう報道を目にした、教育現場の実情をご存じない方々の多くは、


とんでもないルール無視が罷り通っている場所だから、この国の教育はおかしいことだらけなのだ。
厳正な態度で綱紀粛正を進めて頂きたい。


などようのこと思ったりするのだろうな、と、想像する。
この記事をシェアして、そういう反応をあからさまにしている人も少なくない。


記事中、市長の言葉が引用されている。
「何の責任もない教員が選挙で人事を決めるのは民主的でもなんでもなく、秩序を乱す。感覚が狂っている」


狂っているのは誰でもなく「市長」の方である。ということを、現場はほとんどみんな知っている。


教職員よりも早いスパンの、わずか2〜4年で配置転換されていく学校長というものが、
まして、百害あって一利のない民間登用を進め、学校という現場が、生産性や効率だけを求める場ではなく、売上向上を目指す場でもないということが根本的に分かっていない、企業家としてもできそこないであった者が管理職として配置される中、


自ら教壇に立つこともなく、生徒らと直接関わるわけでもなく、職員室に常駐しているわけでもない中で、
どの教職員が、日々どんな仕事を、どのようにこなしていて、教員集団の中でどんな立ち位置にあり、どのように評価されているのか?


などようのことを的確に把握できるとすれば、それはもうほとんど「神」なのであって、
そのようなことのできるものはどこにも存在しない。と、言い切れる。
「できる」というものがいるとすれば、それは、たんなる勘違いか傲慢であるに過ぎない。


「教務主任や生徒指導主事などを教員の選挙で選ぶ」という手段方法は、
ベストな方法ではないにせよ、現場にとってよりベターなやり方であることは疑いがないのである。


管理職は、時の流れの中で、たとえそれが「誤った」「頓珍漢」なものであっても、
上からの指示、通達を「イエスマン」として徹底させることを仕事としているわけであり、


学校長の権限を強化するということは、「イエスマン」でないものを黙らせる、排除するシステムを強化するということに他ならないのである。


そして、自らの二十数年の経験から言える、確かなことは、


現場で、優れた仕事をし、生徒らに多くのことを還元してきたのは、
物言わぬ「イエスマン」ではなく、「イエスマン」にならなかった人々である。


イエスマン」が管理職となり、「イエスマン」を登用するシステムの徹底。それが正義。


そういう正義を、現場の不正義が阻もうとしている。何たることか。というのが、この記事の主旨。


現行定められている「憲法」について、それが素敵なものである、守っていくべきだと思う。
ということを語ることが、「偏向」だとされかねないようになってきた時代、


狂っているのは誰?