人の話を聞く

担当学年の「人権委員」などようのことしておりまして、


職場の「人権委員」の長から、
「20日の午後、校内で講演会が予定されているのですが、人権関係関連の担当者として関係関連がないでもなさそうなので、声をかけられたのですが、どうでしょう、時間が合うならセンセも出席してもらえませんか?」と言われ、


「授業のない時間のようですから、出席させてもらいます」と、返答したはいいけれど、
やり切れぬ仕事残っちまって、よしにすれば良かったかなと思いながらも、出席……。


したら、


そこは、職場の校区にある各高校の、学校長とPTAの役員さんが出席する会合。


講演の講師は、定年まで「障害者スポーツセンター」に勤めておられて、現在はNPO法人で「障害者スポーツ」の発展振興に努めておられる方。
「障害者」と「健常者」の間にある壁が、薄くなればいいな、なくなればいいな。という思いで、今までの人生を送ってこられた方。


その信念にも、言葉にも、虚飾はなく、首肯できることばかり。
できることやれること、やりたいことやれることを「やる」のは素敵なこと、「やれる」場を作ることもまた素敵なこと。だとボクも思う。
知らなかった知識や情報もちらほら、勉強にならなかったかといえば、なりました。


のですが、


そりゃ、自身がスポーツを愛し、スポーツを通して人生を見てきた方だから、致し方のないことだとは思うのですが、


「健常者」でありながら、「スポーツ」とは縁のない生活を送ってきたアタクシなどからすると、


「スポーツ」こそが、下手をすると「スポーツ」だけが、人を笑顔にすることができる。
というような主張になりかねないところに、些かの座りの悪さを覚えたのでありました。


そして、


ボクは、今般の東京でのオリンピック開催の決定を、
この国は今、そんなことで浮かれている場合ではなかろう、という理由で歓迎しない者なのですが、


「健常者」であれ「障害者」であれ、世界の舞台でスポーツをやろうやりたいやらせてあげたい。
と、考える人にとっては、東京でのオリンピック開催は、無条件で喜ばしいことでしかないのだな、


「健常者」が「障害者」と共に社会の中で生きるには、想像力と創造力と挑戦する心が大切。


と言いながらも、そういうところには想像力というのは働かないものなのですね。と思って、些か鼻白んでしまったのでありました。


かてて加えて、


ボクは人の話を聞く際には、メモを取りつつ、話し手の発する言葉の意図や真意を理解することに努め、それその時の自身の考えをまとめるようにしているのですが、


後方の席についていたので、わかったことなのですけれど、
今日のこの講演の場に居合わせた、学校長やPTA関係のほぼすべての人々が、
講師の話を、メモひとつ取らずにただ漫然と聞いているだけだということを知って、驚きを禁じ得なかったのでありました。


高校生たちが、人の話を聞きながらメモを取るということもできない。板書したこと以外、ノートを取ることもできない。


と、嘆く教師の声をよく耳にするのですけれど、


あんたたちだって、おんなじじゃん!
彼らを責めることはできないぜ。と、思ったのでありました。


ま、出たくもないけど出なくちゃならんので、取りあえず顔出してるだけ。な、人が多かったのかも知れんのですが、


人の話を、じっくり聞いて、自分の考えをじっくりまとめようとしている人など、
今のこの国には、ほんの少数しかおらんのかも知れませぬぅ。


昨今、お寒い話が多いのも、道理……。