本当の戦争の話をしよう

戦前から戦中、


国策に利用され、或いは、自ら進んで国策に乗っかって、
国威昂揚のための作品を描いた画家たちが多くいたことを知っている。


描きたいこと、描きたいもの、表現したいこと、するべきことが思うに任せぬ中、
自身の表現への欲求欲望を満たすため、生活のため、やむを得ないところがあったという状況は、わからぬでもない。


「物書き」にも同様の状況があったことは知っている。


書きたいこと、書きたいもの、表現したいこと、するべきこと。
を、自由に書くことは叶わなかった。


そんな時代、


反日プロパガンダ」を強める敵国に対抗するため、軍の要請を受けて「従軍作家」として国策に協力し、読み物を綴った作家の話をテレビで観た。


自らが、


大東亜共栄圏」の名の下に、「東洋は一である」と信じ、
フィリピンでは捕虜の精神教育にあたり、
中国本土では、捕虜の命を自らの手で奪った。


  日本が劣勢であるということを書いてはならない。
  戦争の暗黒面を描いてはいけない。
  女の話を書いてはいけない。
  敵に同情や共感をもたらすようなことを書いてはいけない。


様々な制約の中、ベストセラーを生みだしたものの、
彼の怒りは、消せない過去への思いは、彼の中にくすぶり続け、彼は彼自身の手で、過去の自分にケリをつけていた。


火野葦平という人が、こういう過去を経てきた「物書き」だということを知らなかった。


大東亜共栄圏」は、
あくまでもこの国が頂点に位置し、他のアジア諸国を自身の属国として統合統括するという、この国の者どもが手前勝手に描いた理想。
手前勝手な理想を押し付けられた国々に対して、この国は、なすべき反省とするべき謝罪をして来ていない。
それは、決して「自虐的」なのではなく、正当なこと。


あの戦争は間違いではなかった。侵略の意図を持ったものではなかった。負けたことで不当に非難されているだけだ。
という傲慢は、近隣諸国との摩擦を大きくするだけ。


摩擦を大きくしたがる人々は、一体、何がしたいのだろう?欲しいのだろう?


未見だが、ジブリの新作『風立ちぬ』について、


喫煙場面が多いとクレームをつけた「日本禁煙学会」。
映画を見、「喫煙シーンが多い。けしからん!許せん!」と、真っ先に思い、
そういう自分の思いは、誰はばかることなく正当であると信じて疑わない人がいる。


見るべきモノ、見るべきトコロが目に入らぬ者どもというのは、いつの時代にもいる。


実は、むしろ、


見るべきモノを見ている、見ることのできる者の方が少ない。


画家にしても、物書きにしても、多くの者が時代に流され、
見るべきコト、目を逸らしてはいけないモノから目を背け、あとからそれに気付いた。


今、憲法を変えたがっている人たちは、何がしたい?


オマエは、見るべきコトドモを見ているか?
オマエは、目を逸らしてはいけないモノに気付いているか?