実習生がやって来るヤァ! ヤァ! ヤァ!

"A Hard Day's Night"の邦題を、
ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! 』にしたセンスというのは、どうかと思うのだが、


その下手人は、水野晴郎なのだが、


それはさておき、


職場に、「教育実習生」がやって来た。わらわらと。
オイラは、教科で1名を、クラス関連で2名を担当。


ま、うぃうぃしーわけだが、オレにもそーゆー頃があったのだろーが、


でもって、オイラのバヤイ、


教育への興味関心は漠然としたものでしかなく、教師になるぞなるぜ!という熱い思いがあったわけでもないまま、
何となく出かけた「教育実習」に行ったことが失敗、運の尽き。


この仕事って、意外に面白くやれるんじゃないの?と、勘違いして、今に至る……。


基本的に、


「精神の自由」こそが大切なのですよとゆーことを、様々なテキストを通して話し続けながら、
「公平」であること、「平等」であることをモットーにやって参りましたから、
決して、自身のことを「ダメ教師」だとは思いませんが、型やら枠にはまったことは大大大っキライな性分だし、
団体行動とか集団主義ちゅものからも、できれば忌避したい質なもんで、


本質的には、「みんな同じが素敵だよ」ということが言いたい人の多い、この国における学校とか教師というものにはあまり向いておりませず、


この業界では、些か、ちゅか、結構、ちゅか、ほとんど、ちゅか、絶滅危惧種的に(笑)、


見かけないタイプのニンゲンなのではありますけれど、


今思えば、


「実習」の時から、行き届かぬトコロは多々あるにせよ、オイラのスタイルというのはそれなりに出来上がっておった。


オレはオレ。今も昔も変わりない。


そんなオレ、くそ暑い中、営業マンみたようなスーツに身を固めた実習生やってきて、その立ち居振る舞い眺めていると、
オイラが若い頃行き届かなかったところが、行き届いていたりする。


ほほんほ〜ん。と、かなり感心していたわけだが、


授業時の生徒に対する気配りの仕方や物腰、話し方。そう言えば、どこかで見たこと、聞いたことがあるなと思った。


そして、思い当たった。


新任でやって来た、かつての勤務校で教えたことのある、前任校で同僚になった新任教師。
教科も、姿形も違えど、気配りの仕方や物腰、話し方が、 瓜二つ……。


この彼と、今回の実習に来た彼の共通点は、学生にして「学習塾」で講師をしていた、しているということ。


「塾」の講師するにあたって、経営者側から指示されたこと、指導されたこと、こーするべきだと教えられたこと、学んだこと、
そんな数々を吸収したひとつの完成形が、こういうスタイルなのであろうな。ということに気付いた。


基本、悪くない。マイナス要素というのが少ない。
きっと、そういう数々のことをマスターできぬまま、「塾講師」失格の烙印を押された者も少なからずいるであろうことを考えると、
そういう立ち居振る舞いをマスターし、身につけることができたという段において、彼らは頗る優秀なのだろう。


学校という現場で教壇に立ち、何かを為そうとするにあたって、最初であるにも関わらず、「そつ」がない。


「学習塾」というのは、その「そつのなさ」というのを求める場所なのだろう。


でも、


ある目的(基本「受験対策」でしょうが)に到達させるために、自身の学びたいことどもを選択し、それを学ぶのに自腹を切りながら能動的にやってくる連中を相手にしている「学習塾」と、本来能動的であるべきなのに、気乗りせぬまま、「特に学びたくもないし、学ぶ必要のないことを学ばされている」と思っている者もいないではない「学校」という場の授業。そこで、何かを教え伝えるというのは、現場の教師にもわかっていない人が多いのだけれど、実は根本的に異なること。


「塾」や「予備校」における学習指導者のマナーに、我々が学ぶところも少なくはないけれど、
学校という場における「高校教師」というニンゲンの、教壇におけるありようは、別の姿形も取るべきであろうとオイラは思うので、


今までに「塾」などで培った「マナー」というのを超えて欲しいな。くれんかな。と、期待した次第。


平均点をちょっと上回る教師になるよりも、他とは違う何者かになった方が、おもしれーじゃん。
ま、そういうのは、人それぞれですが……。


そもそも、ガッコの先生になろうかな、なりたいな、と思って、その思いに手が届きそうな者が、自身の卒業したガッコに戻ってきて「実習」するというのは、本当はどうかと思う。
公教育の現場で仕事をすることになれば、様々なガッコで仕事をすることになる。自分の知っているガッコだけがガッコではない。
自分の知らないガッコを経験してこそ「実習」なんじゃないかな?と、思う。
そんなオレ、自分の出たガッコじゃなくて、まったく見知らぬ高校で「実習」したのだけれど、そのガッコが、ひと昔前の青春ドラマに出てきそうな、いかにも平和で楽しげなガッコであったわけで、それが勘違いの元になったわけだから、一概に知らない「ガッコ」がいいとも言えませんのですけれど(爆)


そんなオイラ、教師としてスルーすることのできないことございまして。
スルーできない者が日に日に少なくなってきている中、オイラがスルーできないことについて、


本日付の、「赤」呼ばわりされながら、最近はだらしないことも多い「朝日新聞」夕刊に、国際日本文化研究センター教授・末木文美士氏が書いていた。


  一部の自治体で、学校行事で「君が代」斉唱の際に、それに従わない教員を条例によって厳しく罰するようになった。
  世間ではあまり抵抗なく受け入れられているようだが、僕は非常に問題があると考えている。


オイラの所属している自治体は、まさしくそういう自治体である。そして、外からは学校というものの実情実態の本当のところはわからないだろうけれど、世間だけでなく、現場の教職員にもそれはあまり抵抗なく受け入れられております。でも、オイラもまたこのことは非常に問題があると考えています。


 明治の頃、キリスト者であった内村鑑三が、「教育勅語」への「敬礼」を拒み、不敬と糾弾されたという事例と、それに対する内村の思いや姿勢を挙げながら、末木氏は最後にこう書いている。


  国を愛する形は一つではない。軍事力や経済力で世界の強国たらんとするだけが愛国心ではない。
  平和を愛し、心豊かな文化を育て、近隣と仲良くしようとするのも立派な愛国心だ。
  それを、一定の形に押し込め、それに従わないのは愛国心がないかのように決め付け、弾圧するのは、
  それこそ国を亡ぼす元凶ではないか。深刻な反省が求められる。


オイラは、この仕事する上で、日々常に、末木氏が書いていることと同じことを思いながら教壇に立って来た。
この思いが外圧によって全うできなくなった時には、翌日から食えなくなったとしても、この仕事から足を洗おうと思いながらやって来た。
自らの良心の声に従って、その思いを自身が裏切ることのないように生きてきたことについては自負している。
そして、そんなオイラが、本当に足を洗わなければならない時が、日々近づいているように感じている。実は、実際に、洗いかけたこともある。


最大級にくだらない連中が、暴言妄言の中、最大級のくだらないことを次々に押し付けてくる自治体の、
もはや「なり手」すらなくなってきている公教育の現場で、


「教育」などいう仕事選ぶには、オイラがしている覚悟と同等の覚悟が必要だと思うのだけれど、


若い連中は、そんなことあまり考えていないんだろうな。考えて欲しいんだけどな。


だって、人に何かを伝える仕事をする者であるなら、


「右向け右」と言われた時、「どーして?なんで?」と、考える人じゃなきゃダメですから。