beしてdoしてhaveなのです

高校に入って間もない生徒らと、
鷲田清一の『他者を理解するということ』という短文を読んでいる。


要は、


自分以外の他者とは、たとえそれが血の繋がった肉親であっても100%共感できるということはない。あり得ない。
言葉を交わせば交わすほど、微細な部分における差異は際立ってくる。
それでもなお、相手の言葉を聴くという姿勢を崩さず、困難な事態や状況から逃げ出さないこと。
それは、個人対個人の関係であっても、集団対集団、組織体組織、国家対国家であっても同様である。


相手の話を聴くこと、そして、聴き続けること。そこにしか「理解」に近づく鍵はない。
「わかる」のではなく「認める」ことが重要なのだ。


と、いうお話。


入学間もない高校生にぶつけるには悪くないテキストだと思う。


ただ、


話を聴きたくもない相手、寄り添うことを拒否したくなる相手というのは、いる。厳然として存在している。


それが、集団対集団、組織対組織、国家対国家、民族対民族
であったりもするからコトは厄介になる。


それその時は、マス対マスの嫉妬や怨嗟や憎悪を、個人対個人に置き換えて、
個のコトバに、個として耳を傾けることこそが大切なのだろうと思う。


「わかる」ことはできない。でも、「認める」ことはできるかも知れない……。


にもかかわらず、


「わかる」ことは元より、「認める」ことすらしないできない者どもが増えてきているように思う。
「認めない」ものは、自身の持っている力を発動し、完膚無きまでに叩きのめし排除しようとする。
そんな、力こそが「正義」である。という発想に、多くがなびいている。


人はみな、他者の不幸を前にすれば心痛めるが、自ら不幸になりたくはない。
オレにしたところで、かなりのお人好しだとは思うが、進んで不幸になりたいとは思わない。
でも、オレは、この世のすべての命あるモノどもが、できる限りにおいて、不幸から遠いところにいられることを願っている。


そのために、


本当に微力ではあるけれど、いてもいなくてもおんなじようなもんだけど、何ができるのかを考えて仕事をしている。
寝不足や二日酔いで、だらしない日もあるけれど、何ができるのかを考えて己の仕事をしている。つもり。


そんな授業をふたつ終えた午後、
生徒らと、木下晴弘という人の講演を聴いた。


自尊感情のないところに他者を敬う気持ちは生まれない。
自分がここにいることを、ここに生きていることを大切に思おう。
学問や努力は自身のためにするのではない。学んだこと、自身が身につけたことは他者の幸福のために用いるのだ。
与えよ、さらば与えられん。


ひとつ間違えれば安っぽく怪しげな、「自己啓発セミナー」の説法になりそうな話を、
自由で闊達な語りによって、要所要所で聴く者の感情を揺さぶる講演だった。


そう簡単に人を信用しない、底意地の悪いニヒリストなオレが、
珍しく、言っていることの大半に同意した。


オレがテキスト教材を元に、ティーンズを前に伝えたいと思っていること語っていること、
午前中、まさにオレが教室で語っていたことと大筋で同じことを、オレの数倍流暢な弁舌をもって語っていた。


が、オレが普段言っていることの中で、この人が語らなかったこともあった。


この人のオリジナルではないらしいが、そして、自己啓発関係関連ではそこそこ有名なものらしいが、


「be→do→have の法則」というもの
他者のことを敬い大切に思うには、「be」=自己承認が前提となる。
それがあって初めて、自身の希望を叶えるために何ができるかがわかり、「do」=行動承認に繋がる。
それを重ねていくことで、求めるものは手に入る。「have」=成果承認


自身を大切に思わぬ者が、他者を敬う気持ちを持てるはずがない。
他者を大事に思わぬ者が、何かを手に入れられるはずはない。
何かを手に入れるためには、あきらめないことが大切である。


そうなんだろう、間違ってはいないと思う。


ただ、大前提となる「be」を形作るその段において、
自らの力ではどうすることもできない無力な時に、「be」を形作ることを許されない環境の中で、この世に生を受ける者は少なくない。
そんな者どもが「be」に思いを馳せるためには、誰かの力が必要である。誰が、どんな力となるのか?なり得るのか?
そのことを氏は語らなかった。


また、


あきらめないこと。は、確かに大切なことだ。


でも、


あきらめず努力を重ねても、求めるものに手が届かぬコトも、実は多い。


そのことを氏は語らなかった。


それを努力が足りなかったからだ。と言ってしまうのはたやすい。
求めるばかりで、人に与えることが足りなかったからだ。と言ってしまうのもまたたやすい。


オレは、


人が生きる上で、本当に大事なことは、
あきらめず、努力を重ねても、求めるものに手が届かぬコトがあることを知ること。
その時に、嫉妬や怨嗟や憎悪の気持ちを抱かぬこと。


だと思っている。


オレは、遅蒔きに、人前で音楽やっているけれど、


それは、


「have」のためではなく、
誰かに「do」を認めてもらいたい気持ちがないといえば嘘になるけれど、


「be」のためなんだろうなと漠然と思っている。


オレは、こんなヤツだけど、オレのことが好きだよ。そして、この世に生きている他の奴らのことも好きでいたいな。
ということを実感するために音楽というのをやっている。


ならば、仕事だけでよかったのかも知れない。
でも、それを実感するための手段として、音楽という選択肢もオレの中にあった。


ということなんだと思う。


今日のブログ、妙に長くなってしまったけれど、


自分自身と他の誰かの「be」を実感するために、明後日21日はイベントやらかします。


オレの「be」が届くかどうかはわからないけれど、
出演を快諾してくれたバンドマンたちの「be」や「do」は確実に、その場にいる人に届くと思うよ。


金とか名声とは違うとは思うけれど、
ステージに立つすべての人々に、「have」もあることを願って、


4月21日(日) @扇町para-dice 「さるの恩知らず」
開場 18:00 / 怪演 18:30 ¥1,500 (+1drink ¥500)
【出演】モンビジ、あきら(from「三文からす」)、モンスターロシモフ、KOKESHI、がらんどう


自覚はあったけど、改めて、我ながら、とんでもなく逆説的なイベントタイトルだな(笑)