努力とか才能とか

下手すると、この世で一番読んだ回数が多いのはオイラかもしれない?


と、思うほどに何度も繰り返し読んでいる、中島敦の『山月記
若い頃、強烈なインパクトありましたが、
読めば読むほど、噛めば噛むほど味が出る。というほどのことはなかったりするのがちょっと残念だったりする『山月記』(爆)


また、読んでいるのでありますが、


「産を破り心を狂わせてまで自分が生涯それに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死にきれない」


と、李徴が記誦するところの詩を部下に書き取らせる袁慘、それを聞きつつ、
「作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於て)欠けるところがあるのではないか」なーんてことを思ったりなんかしちゃたりするのですが、


その「何処か」が何に起因するのかは、作中では一切つまびらかにされていないのではありますが、
そもそも、エリート公務員である袁慘が、作品の文学的価値を客観的に云々できる立場にあるのかどうかすら疑問ではあるのではありますが、
李徴の作品の欠点欠陥は、彼自身の性情性質人間性の欠点欠陥に起因しているのである。と、作者自身が考えていて、作品中にこのくだりを盛り込んだのであるならば、
物語や詩を紡ぐ者は、高潔で人品卑しからぬ者でなければならんと中島敦自身が思っていたということになるのであるけれど、


「物書き」なんちゅのは元来、偏屈偏狭なものであって、そうであるからこそ、凡人と違った物の見方考え方ちゅのが可能なのであって、
李徴の偏狭なんちゅのは、一流も一流、超一流なのではないのかしらん?まして、虎が人間の言葉を話して詩を詠んでるんですぜ。それって、ベストセラー間違いなしですやん?


などと、虚けた(うつけた)こと考えているうち、


連続ピストル殺人犯、永山則夫のことを思い出した。


無辜の四人を拳銃で殺害した男はもう、この世から抹消されたが、
学校教育というものをまともに受けることをしなかったできなかった男は、罪を犯してから東京拘置所で読書という形で多くを学んだ。
学びながら、文章をものした。小説をものした。入会を申し込んだ「日本文藝家協会」の一部理事が、彼の入会に反対し、入会は認められなかった。それに抗議した中上健次筒井康隆柄谷行人が協会を脱会した。


さて、


仮に、中島敦が同時代の人で「日本文藝家協会」の会員だったら、どのように振る舞ったのだろうな?と、思った。


「人殺し」の書いた作品は、文学とは呼べないのか?芸術作品として価値がないのか?
無知の涙』は読んだけれど、小説『木橋』は未読。今さらながら、読んでみようと思った。


のだけれど、ポール・オースターの邦訳新刊出ていたわけで、購入。
訳を待たずにペーパーバックを読み解くような英語力、かつてもほとんどなかったが、今は皆無であるにつき、訳書購入。


ポール・オースターの人格が高潔かどうか、よくは知らんが、紛れもなく文学でしょ、これは。


なぁんてこと言いながら、明日はライブ at NAMBA "Mele"。


オイラの人格が高潔かどうか、たぶん高潔とはほど遠いとは思うが、紛れもなく音楽ですよ、これは(笑)。