陽の当たる場所

生家の近くに「博愛社」という施設があった。というか今もある。
昔は「孤児院」と呼んでいた「児童養護施設」。


前を通る度、お袋は「かわいそうな子ぉらが住んでるねんで」と言った。


親のない子、親と暮らせない事情のある子を十把一絡げに「かわいそう」と断ずるのはどうかと思ったが、オレよりも「恵まれていない」ことは確かだと思った。


松本大洋の"Sunny"第1巻読んで、繰り返し読んで、「博愛社」のこと思い出した。
校区が違ったから、オレの通う小学校に「博愛社」から通う子はいなかった。
オトナになって、今の仕事するようになって、今の職場で働くようになって、
「施設」にいた子、今も「施設」から通う子らを直接知るようになった。


有り体に言って、
過去の職場にいなかった(ただのひとりもいなかったさ)子らが、今の職場に少なからずいることが、すべてを物語っている。


「自由競争」の社会と言いながら、それはタテマエ。
この世にオギャーと生まれ落ちたその時から、人はそれぞれ違った荷物を背負わされている。背負っているもののすべてを誰かが肩代わりしてくれる者もいれば、本当は背負わなくてもいいものまで背負わされている者もいる。


自分の今立っている場所が、己の努力の賜(たまもの)だと信じて疑わない幸せな人々の多くは、「平等」という名の虚構を当たり前のことのように受け止めている。己の努力の賜だけではないことをうすうすわかっていながら、自分がよければ他人のことなどどうでもよいと思っている者もいる。


"あしたのジョー"も、"タイガーマスク"も、リングで闘い続けることでしか陽の当たる場所に立てなかった。それは今も変わらない。いや、そういう物語が成立し得なくなっている現代の方が状況は厳しいように思う。


「孤独」というヤツは、人を強くもするけれど、
「孤独」というヤツを、己の責任ではなく背負わされるその重さを、
自身の手で払いのける力のあるヤツは多くない。


どうせニンゲンとして生き、死んでいくなら、


最期まで、そういうことのわかっているニンゲンでいたいと思う。
そういうことをわかっていない連中と、わかる気のない連中と、闘い続けようと思う。


微力ですが……。