物語が必要なのは誰?

自分自身で拝む機会のあまりないもの、そのひとつに「己の寝顔」というヤツがある。


カリブの写真バチバチ撮ってる中に、オレが一緒に寝ているのあって、


その何枚かを眺めていて、ハッとした。


オレの顔、元々オヤジにもお袋にも顕著には似ていないのだが、
その写真の目を閉じたオレは、眠っているオヤジの面影を宿していた。


オヤジが今のオレの歳だった時、オレは15だった。


その頃、学校からの帰り、家の近くまで来た所で、前を行くオヤジの後ろ姿を見たことがある。
家の外で、離れたところから、他人を見るようにオヤジの姿を見ることは珍しかったから、記憶に焼き付いている。


オヤジの背中は、思ったよりも小さく、疲労やら不興やら怨嗟のようなものまで感じられ、
早足になれば追いつける距離だったが、背中を見ながら家まで歩いた。



昨日から、『1Q84』読んでいる。玩味しながら。


「人間というものは結局のところ、遺伝子にとってのただの乗り物であり、通り道に過ぎないのです。彼らは馬を乗り潰していくように、世代から世代へと私たちを乗り継いでいきます。そして遺伝子は何が善で何が悪かなんてことは考えません。私たちが幸福になろうが不幸になろうが、彼らの知ったことではありません。私たちはただの手段に過ぎないわけですから」


オレの背中にも、あの時のオヤジのように、疲労や不興が張り付いているだろうか?


村上春樹ポール・オースターの文章を読むと、頭の中で、追憶やイマジネーションが火花する。パチパチと。


1Q84』の中で村上春樹は、小説とは何か、物語とは何かについて、登場人物に語らせている。


「物語の森では、どれだけものごとの関連性が明らかになったところで、明快な解答が与えられることはまずない。(中略)物語の役目は、おおまかな言い方をすれば、ひとつの問題をべつのかたちに置き換えることである。そしてその移動の質や方向性によって、解答のあり方が物語的に示唆される。(中略)それは理解できない呪文が書かれた紙片のようなものだ。時として整合性を欠いており、すぐに実際的な役には立たない。しかしそれは可能性を含んでいる。いつか自分はその呪文を解くことができるかもしれない。そんな可能性が彼の心を、奥の方からじんわりと温めてくれる」


春樹もオースターも、
物語にこうしたことを求めない類の人たちが読むものではない。
そして、恐らくは、物語にこうしたことを求める人の数はとても少ない。


にもかかわらず、ベストセラーだという不思議。