ヘイトするその感情がおぞましい

20年間、


特に寄り道するでなく、脇目もふらず、職場と自宅の往復を続けていると、


公共交通機関を利用するといろんな意味において新鮮である。という話を、つい先日、書いたのでしたが、


心斎橋、なんば、アメ村、日本橋恵美須町あたりで気づくのは、


そしてとりわけ、通勤通学定期券やPiTaPaを利用していない者が利用する、券売機周辺で気づくのは、


観光客と思われる中国の人たちの多さ。


かの方々、見かけだけではそうとはわからぬが、


何せ、声がでかい。そして、往々にして、遠慮がない(ようにこちらの目には映る)。


それで初めてそうと知れることが、逆に近親憎悪的感情を一層かき立てるようにも思われる。


無論、70〜80年代、本国における「農協団体海外旅行客」というのが、


その行く先々で大顰蹙を買っていたことは、縷々語られているので、同じようなものだと思うのですが、


かつて、


外国人生徒枠があり、実際は、その設けられた枠以上の生徒たちが、


中韓は言うに及ばず、東南アジア、中東、中南米出身の生徒も含めて、多数入学在籍していて、


韓国語を教える在日の教員、中国語を教えるネイティブの教員が、生活進路上の相談面倒も見つつ、常勤致しており、


各国語を教える各国出身の教員や通訳の方も多数、非常勤で出入りしていた職場に九年間籍を置き、


そういう生徒たちに日本語を教えていた経験もある、


元々、民族、宗教、風俗習慣の違いに関して、その辺のひとたちに比べて極めてニュートラルであろうと思われるオレにして、


繁華街における、この中国語の氾濫には、驚きを禁じ得ないわけで、


昨今の、嫌中嫌韓意識の高まりというのは、こういう現状と無関係ではないのかも知れないな。


と、思うのでした。


ここは自分たちの場所であるのに、勝手気ままに振る舞うなよ。 という嫌悪感。


このままだと、外なる者に自分たちの場所を浸食されていくのではないか? という漠とした不安。


そんなアトモスフェアが、この国の人々の感情の根っこの部分を刺激、支配しているから、


今の国粋主義全体主義的な国家権力のありようを、


ヘイトスピーチなどようのおぞましいものを、


許容してしまうのかもしれないな。と、思うのでした。


と言って、じゃ、どーすればいいのか? という答えがオレにあるわけでなく、


おぞましいものは、おぞましいと言い続けるしかないのですけれど、


世間一般における中国語の氾濫はどこへやら、


今の我が職場には、教職員にも生徒たちにも、外国籍の者、ほとんどいないわけで、


そういう囲い込まれ方、囲い込み方による、社会構造の二極化ということが、


そもそも、問題なんだろうね。


ポッキーの日とか言って、商業主義に踊らされてる場合じゃないと思うぞ。


商業主義は、共生とか相互理解などとはかけ離れた別の次元で、中韓からの観光客を、大いにアテにしてるんだろうけどさ……。