要領よく演技できず愛想笑いも作れない
この国を、この国の人々を、貶め辱めた国賊として、
「朝日新聞」叩きの音、喧しい中、
誤報をオーケーですよという気はさらさらないのですけれど、
報道のあり方をマッチポンプ的だと嫌う人がいるのも頷けるのですけれど、
それでも、「朝日」を購読しているのは、
他でもない、記者の書く記事そのもの以上に、この新聞に寄稿している人々のコトバに、
信頼に足る、質の高い、意味のあるコトバを目にすることが多いから。
なのです。
信用できる人間と、信用できない人間がいる中で、信用できる人間のコトバを目にする機会が多いから。
なのです。
それは、「産経」&「読売」の比ではない。「毎日」も悪くないけれど、二紙を購読するほどの財力もなければ、目を通す時間もない。
ネット時代、情報化の時代、日々垂れ流される大量の情報は、ジャンクやデマゴギーに満ちている溢れている。
その混沌とした情報の渦の中から、どのコトバ、誰のコトバに耳を傾けるか?
という、選択選別の力を身につけることこそが、「知性」ということなのだとボクは思っております。
「朝日」に掲載された文章が、大学入試問題となる率が高いのはなぜか?
出題者たる大学関係者が、まだそこまでバカではないからである。刮目すべき、瞠目すべきコトバが、「朝日」により多く掲載されているからだ。
どこの誰が信用に足る人物なのか? そこにあるコトバが信用できるかどうか?
それを嗅ぎ分ける嗅覚を、失くしてしまった人が多くなっているような気がする。
かつては「経験知」というものによって、それを身につけた人も多かったように思うのだが、そういう人も少なくなってしまっているように思う。
ボクの仕事は、若者に、そんな嗅覚を身につけるよう導くことなのだが、それがなかなか困難になってきている。
それは、詰め込み詰め込まれた「知識」とは、また別のところにあるもの。
「知識」そのものが不足している場合は元より、「知識」を、単に「金儲け」のための方法手段としか見なさずに生きている者たちは、
自分にとって何が重要なのか?ということにしか注意を払わない。目先にぶら下がった損得にしか興味がない、物事を判断しない。
今、この国の中で、巨万の富を手にし、手にし続けたいと考える者どもと、
そういう者どもに利益をもたらすために動き、働くことに自らの得た「権力」を行使しようとしている者どもは、
どこをどう切り取っても「知性」的ではない。
原発を再稼働させたがっている連中や、集団的自衛権の必要性を説く者どもや、日本民族の優位性を誇らしげに語る人々は、
「知性」的ではない。
信頼に足らぬ人間のコトバをありがたがるほど、ボクは間抜けではない。
悪いけど。
ただ、この国が、本当の間抜けか、間抜けの振りをしなければ、生きづらい場所になって来ていることは明らかで、
実際に、間抜けと、間抜けの振りをする人間が増えている。
間抜けの振りをしなければオミットされる時代に、なって欲しくはないけれど、なっていく気配が濃厚なのだけれど、
ボクは間抜けにはなりたくないので、どこまでも、抵抗します反抗します。
悪いけど。