ヒトの不幸を笑うな

己の出自と職業柄、
「社会の格差」というの考えることしばしばで、


人であれ、他の生き物であれ、
「幸福に暮らしたい」という願いを叶えたいというそのことに、何人も異を唱えることはできない。


今日の夕刻、歩道橋の下で死んだように寝そべっている白猫また見かけて、先日見かけた時にはなかったはずの、顔の赤い爛れ見るにつけ、コヤツがウチにいるニャンコだったら、この猛暑、もそっとシアワセに過ごせただろうにと思ったりするわけだが、


路上生活余儀なくされているすべてのニャンコを、オレが保護してやることできるはずもなく、


そーゆーのが「偽善」であるのわかっちゃいるわけで、


本日、本格的に再開したオレの職場、
相も変わらず授業に出席する連中、講座に登録している者の半数で、開講初日から出席していても、教科書持参するでなく、人の話に聞く耳持たぬ連中が更にその半数を占め、何かを学ぼう吸収しようという気力もなく、


そんな残念な彼らと、顔面赤く爛れた白いニャンコがオレの中で不思議にリンクして、


オレや、オレの同僚の力で、ほんの少しでも何とかしてやれるんじゃないかしらん?


と、思ったりもするのだが、


途方に暮れたすべてのニャンコをオレが保護してやることができないのと同様、目の前でもがいている若者を、オレやオレの仕事仲間がどれだけシアワセにしてやれるのか、など思うと、それもまた「偽善」であるよーな気がして、


それは、


とっても、


むなしい。


結句、当人の能力や努力の不足であると断じるのはたやすいけれど、


そして、当節は「競争に勝つ!」ことを説く勇ましい人、のさばっているけれど、


勝てない者は、ハナから同じスタートラインに立つことすら難しく、


仮に、日々通院し健康管理されているウチのニャンコが、歩道橋の下であえいでいるニャンコより幸せな「勝ち組」なのだとしたら、


それは、


能力や努力のせいではなく、


ひとえに、


「運」のせい。


であるならば、


ニャンコの「運」より、ヒトの「運」の方が確実に少ない。


そんな哀れなことがあっていいのか?


それはおかしいことだ、など思うことは「偽善」なのだろうか?


「偽善」によって、我が家に引き取られたウチのニャンコは、
一年ぶりのワクチンが夜になって堪えてきたのか、ハンモックで寝息を立てている。


歩道橋の下は、暑くて不衛生で危険だが、
爛れた顔のニャンコを、悲しいかなオレも救えない、救わない……。


ウチが引き取らなかったら、今頃死んでいただろうニャンコと暮らしながら、


そんなことをぼんやり考えている夜長……。