見えないモノを見ることについて

この暑さの中、週明けから授業かと思うとうんざり。



夏休み最後の休日、春雨サラダつついて昼からビール。


高校野球眺めてたら意外な大差。
決勝で打たれた投手、選手としての商品価値が一気に下がりそう。
野球に人生の時間の大半を費やしてきたであろう若者の今後は?
などようのこと思って、少し切なくなった。


にしても暑い。


球場を駆け回る若者がいる一方で、熱中症による死亡者が全国で300人を超えている。
エアコンがないか、あっても使用していなかった高齢者がほとんど。


元々エアコン嫌いの我が家ですら、今年の夏は夕刻になるとエアコンをつけている。


エアコンを設置したくても設置する余裕のない人がいる。エアコンのスイッチを入れたくても、電気代がかさむのを恐れて入れられない人がいる。


オレのすでに逝った母親も、電気代がかさむこと恐れて、暑いのをこらえていること多かった。


わずかばかりの年金で、爪に火を灯すように細々暮らす老人は多い。


その一方で、


帰宅した時に暑いからと、留守中でもエアコン回しっぱなしの家庭がある。
電気代が今月は2万だった3万だったなど言っている。
携帯電話の使用料金がヒト月数万円、その支払いのためにバイトする高校生がいる。


「格差」という言葉だけでは片付けられぬ狂いや歪みが日々デカく大きくなっているような気がする。


本当に見えていないのか、見ようと思えば見えるのに気づいていないのか、見えているのに見なかったことにしているのか。


夜、ニャンコが身構えたまま、誰もいない何もない場所をずーっと凝視していた。


ニンゲンには見えない、狂いや歪みが見えてんのかも知れませぬ。ニャニャ。