表も裏もおんなじ

隠すほどのことでもないから、取り立てて隠しちゃいないし、
売り物にするよーなことでもないから、殊更に表に出すわけでもない。


というスタンスで、オイラは教師でありつつバンドマンなのだが、


かといって、当然ながら、
公と私が、まったく解離しているというわけではなく、


「自由」ということ希求しているそのことにおいて、
どちらの顔も、根っこのところでは同じなのであります。


世間には、教師であること全面に打ち出して、バンドやってる人もいるのでありますが、


そーゆー連中に限って、


「素晴らしい仲間」だの、「美しき友情」だの、「人類は皆兄弟」だの、「努力はきっと報われる」だの、「君のことを誰かがきっと思ってる」だのいったことを、間抜け面して歌っていたりするのでありまして、


そーゆー輩は、教師としても「くだらない」人々であると断じているので、
そーゆー輩と一緒くたにされないために、アタクシは公と私に一線を引いていたりしているのであります。


バンド関係者から「センセー」と呼ばれることを疎ましく思うのは、そーゆー輩と一緒くたにされているよーな気になるからであり、オイラは教師としても、同僚は言うに及ばず、生徒たちからも「センセー」という呼ばわれ方は、実のところ、されたくないのであります。


そのあたりの感じがわかる人は、オイラのことを「センセー」と呼ばないよーなので、それもまた面白いトコロであります。


自分にとっての「仲間」というのが何であるのか、「友情」というのが何であるのか、「人間」という生き物が何であるのか、「努力しても報われない」ことがあることを知った時、どのように振る舞うのか、「誰かに思ってもらう」その前に、「自身は誰のことを大切に思っているのか」などようのことを、静かに考えて、


己を束縛するものどもの正体を見極める目を日々養いながら、自分自身が、誰かを束縛する何かとして生きていないかどうかを確かめていくそのことが、


教師としてのオレの仕事であるし、バンドマンとしてやりたいことであると、


ご大層な言い方をすると、そう思っております。


解き放たれること。教師のオレも、バンドマンのオレも、やろうとしてることは同じ。
どっちも、永遠にゴールには辿り着きそうもないのですけんどもね。というお話。


とっぴんぱらりのぷ。どっとはらい