良識派だと思っているあなたへ

授業で読んでいた、村上春樹の『沈黙』にも描かれていたのですけれど、


この国の人(に限ったことなのかどうかは、他国の状況を詳しく知らないので断言はできませんが)、
昔から、「寄らば大樹の陰」とか、「長いものには巻かれろ」という言葉があるように、


「鶏口となるも牛後となるなかれ」と言う言葉もあるものの、それは『史記蘇秦伝が出典、中国由来だし、
それは、「小集団でも良いからトップ取れ!」という意味ですから、真の対義語とは言えないと思うわけで、


要するに、「同調圧力」に弱い。


「長いものに巻かれ」ながら、我が身を守ろうとする。
「長いものに巻かれ」る中で、集団になって誰かを傷つけたり損なったりしていることについての自覚がない。当然、責任も負わない。


判断や決断を自身で下さず、多数派の判断や決断に身を任せる。


そういった傾向が、とりわけ若い世代に顕著になっているという言説を、近頃、よく見かける。


少数派になることを嫌う。自身が多数派に属していることで安心する。
多数派に対する抵抗や反抗を嫌悪し、容認しない。寧ろ、排除しにかかる。


成蹊大の政治学の教授、野口雅弘氏が講義の中で、共に丸山真男の弟子である二人の政治学者(共に故人)の民主主義論を紹介したという記事を読んだ。


松下圭一は、経済的豊かさを肯定しながら、市民による地域自治が活性化しつつある状況を民主主義の萌芽として肯定した。
藤田省三は、経済成長で変化していく日本に同調圧力の高まりを見出し、異質な存在の排除が民主主義を損ねるとして批判した。


講義を受けた、日頃は「あまり自分の意見を前面に出さない」学生たちのレポートには、その多くに、
藤田のスタンスに対して、「老害」、「悪口ばかり」といった強い反発の言葉が並んだという。


丸山は、戦前を否定することで民主主義を語った。
その弟子である、
松下は、国に対峙するものとして、自治体から民主主義を考えた。
藤田は、抵抗と異質な存在が民主主義には欠かせないとした。


同調圧力の高まりが、抵抗の力を弱め、異質な存在の排除に繋がることに目を向けた藤田の論を、
今の学生たちの多くが嫌うのは、同調圧力に惹かれ、長いものに巻かれながら生きていこうとしている自分たちのことを、
己のアタマで深く考えてはいないなりに、否定し批判されていることに気づくからなのだと思われる。


彼彼女らは、村上春樹『沈黙』や安部公房の『良識派』を読んだら、どんな感想を抱くのだろう?
というか、高校の時に、そういうものを読んでこなかったのか?読んでも、何も感じなかったのか?


権力に対する監視機能(主としてメディアがそれを担っています)を失う時、「抵抗勢力」が弱体化する時、


「民主主義」は、根っ子から腐り始めます。そして、崩壊します。


政権党の横暴や粉飾や欺瞞や出鱈目を、許容している今、


たぶん、もう、腐敗はかなりのところまで進んでいるのでしょう。


悲しいけれど。