ぼくたちの失敗

タイムラインに流れる、とある人物の、


  「新しい歴史教科書をつくる会」が出来て20年、国旗国歌法から17年、教育基本法改悪から12年、
  実は既に若者の多くが国家主義全体主義の教育で愚民化された「新・小国民」になっている訳だから、この惨状も致し方ないかもだ。
  この国は早くまた滅びてやり直すしかないだろう。


というつぶやきを目にしながら、


自身の仕事に、年々、深い徒労を感じるようになっている、その理由を突きつけられているような気がした。


若者の中に、国家主義全体主義を当たり前と考える、
少数派は多数派に黙って従わねばならない。多数決とはそういうことだ、民主主義とはそういうことだ。
と、本気で思っている政治的バカが確実に増えている。


ボクは、高等学校「現代文」の教科書を「最後の良心」と呼んでいるのですけれど、
その「最後の良心」の中にも、「戦争」の悲惨を描いた文学の割合は、年々少なくなっている。


教科書選定の際に、「もう「反戦文学」には食傷です」と、たわけたことを言う阿呆な国語教師がいたほどに、
一時は、「戦争」にまつわる作品が多く所収されていたのに、
今、「戦争」や「貧困」を扱った作品はほとんど見かけなくなった。


 大岡昇平 『俘虜記』、『野火』、『靴の話』
 井伏鱒二 『黒い雨』
 原民喜  『夏の花』
 山川方夫 『夏の葬列』
 野坂昭如 『火垂るの墓
 大江健三郎 『人間の羊』
 茨木のり子『わたしがいちばんきれいだったとき』
 アンネ・フランク 『アンネの日記
 ティム・オブライエン 『待ち伏せ
 etc...


まだ、収められている作品もあるものの、教科書の中で大きな位置を占めることはなくなった。
大岡昇平の名を教科書で見ることは、ほとんどなくなった。


小学生の頃から、スマホを手にしていた世代である今の高校生たち、


ほんの一部の例外を除いて、大多数が、学校の授業と塾以外のところでは、「文章」というものをまったく読んでいない。
「文学」というものについては、教科書に載っていて、授業で読んだことのあるもの以外、何も知らない。
本当に知らない。驚くほど知らない。恐ろしいほど知らない。


テレビで放映されることがなくなったからか、古い映画も観ていない。


だから、彼彼女らの多くは、知識としての、情報としての「戦争」を、その悲惨を、
ボクが知っていることの、恐らく百分の一も知らない。


教育というものの、あり方、積み重ねの持つ意味は小さくない。


ぼくたちは、失敗したのかも知れない。


くだらない圧力には、可能な限り抵抗しながら、
「自由」と「平等」と「権利」と「平和」について、語り続けてきたつもりなのですけれど、


失敗したのかも知れない。


教育の現場にありながら、それが大切なことなのだということを、強く意識しなかった者が多すぎた。
時代の風に逆らわず、身を任せることでやり過ごして来た者が多すぎた。


教壇で、「自由」や「平等」や「権利」や「平和」を語る者が、「変り者」と思われるようになった。


そして、


ぼくも「戦争」は知らないけれど、ボク以上に「戦争」を知らない子どもたちがオトナになって、
「自由」や「平等」や「権利」や「平和」のことを考えることをしないままオトナになった世代が、


教壇に立つ時代になった。


体育教師は、得てして、たやすく全体主義に傾きやすい。
数学教師や理科教師の多くは、己の教えていることが文明を滅ぼす可能性があることに留意しない。
社会科教師には、反省材料として歴史を捉えるのでなく、ただのオタクである者も少なくない。
英語科教師には、言語を手段として教えることを超えたところで、何を伝えるのか伝えたいのかを考えている者、そう多くない。
「自由」、「平等」、「権利」、「平和」と、表現というもの、密接に関係しているのですけれど、
音楽、美術、書道の教師、学校教育に置ける必要性重要性がどんどん薄くなっている。
情報科の教師、申し訳ないけれど、カリキュラムの中で必修化する必要を感じなかったし、今も感じない。
家庭科教師、おしなべて、男女同権への意識は高い。のですけれど、生徒への、特に男子に対する求心力が低い。


小学校も、中学校も、高校も、


教員の多くは、世の中の変化を、管理や監視の強化の意味するところをうすうす感じていながら、
教育の危機というものを、深刻に捉えて来なかったのではなかったか。


またぞろ、カリキュラムがいじくられる。大学入試制度にも手が入る。
改革が改善になる気配は、微塵もない。


国家主義全体主義を是とする方向に拍車がかかる。


ぼくたちは、失敗したのかも知れない。