ほっこりには文学より猫がいいよと思ったり

昨日付のブログで、


「あはれ」が足りないと書いたあとの今日、


授業終了後、とあるクラスの女子、
授業中、「意識のシャワー」を放出している系の女子、


「センセ、今読んでるの終わったら、次、何読むか決まってますか?」と聞いてくる。


先読みしておきたいのかと思ったので、「決めてないでもないけど」と、これとかこれとか……。


と教えると、


「ほっこりするような話が読みたいです」と、言いやった。


で、「現代文」の教科書、筑摩書房の教科書、


憲法の話、自然科学の話、ジャーナリズムの話、アートの話、宇宙の話、日本文化の話、
情報化の話、文芸の話、医療の話、経済の話、言語の話、権利の話……、


と、いろいろ載っかっておりますのですけれど、


小説も、


自尊心と羞恥心の狭間で虎になった男の話、貧乏人にも見栄があるという話、友人が自殺する話、
恩師の話、立身出世のために女を捨てる男の話、物言わぬ大衆が実は一番恐ろしいのだという話……、


など、いろんなお話が所収されているのではありますが、


詩歌も、


妹が死ぬ話、母が死ぬ話、表札を掛ける話など、載っかっているのではありますが、


「ほっこり」するような話はほとんどございませんのでして、


西鶴をベースにして太宰が書いた貧乏話と、魯迅が書いた恩師の話が、かろうじてちょっと「ほっこり」する感じ……。


「文学」というものは、


この世に生きる人間が、疑問に思ったり、悩んだり苦しんだりするその様を描くものですから、
人生というものは、希望という出口が必ずそこに待っているものではございませんから、思うに任せないものですから、
人はみな、誰でも、いつか死んでいくものですから、この世からいなくなる存在なのですから、


そういうことを、あの手この手で、レトリックというものを駆使して、表現しようとしたものですから、


なかなか、「ほっこり」とは致しませんのです。


童話のあれこれだって、「ほっこり」するものあまりないでしょ。
ボクが、今でも、読むたびに涙を禁じ得ない、『ごんぎつね』だって、「ほっこり」しないでしょ。


「ほっこり」を求める気持ちを、頭ごなしに否定する気はないですが、わからないではないですが、
「ほっこり」よりも「あはれ」の方に、人間というものの「真実」は潜んでいるように、ボクは思うのでした。


映画にしたところで、


海外なら、ネオリアリスモや、ヌーヴェルヴァーグや、フィルムノワールや、アメリカン・ニューシネマが、
本邦なら、日活文芸ロマンポルノや、ATGが、


強烈にインパクトありましたですやんかいさ。
そういう映画たち、まったくもって「ほっこり」してませんでしたやんかいさ。


というわけで、


「文字読みたい系少女」にあっても、「ほっこり」を求める世の中、
「あはれ」が受け入れられない理由はそのあたりにあるのかも?


と、思ったのでありました。あったったったのた。