読んでるものが違いますのねん

最近は、


新聞や本を読もうとすると、


「お近く用」の眼鏡(爆)が必要であり、


さらに、


文字を読むことを生業に致しておりますので、それそのことだけで、目が疲れます。


ので、


趣味における「読書」の総量が、若い頃に比べて、激減致しております。


が、


我が職場には、年齢をものともせず、耽読濫読に勤しんでいる先輩同僚がおります。


たとえ、仕事がどんなに暇な時であっても、ボクはもう、


仕事に間接的に関係あるとはいえ、


直接関係のない趣味の読書を、職場ではできない体質になってしまっておりますので、


職場で、読書に勤しめる彼のことが羨ましかったり致します。


ただ、


彼は、時代小説や恋愛小説といった、ライトなテイストの、エンタメ系の小説がお気に入りのようで、


途方もない数の小説を渉猟されておいでなのですが、


ボクが好んでいたところ、いるところの、


ガルシア・マルケスに代表されるところの中南米文学の数々や、
カート・ヴォネガットや、フィリップ・K・ディックなどようの人々や、
チャールズ・ブコウスキーのような酔いどれ詩人や、
ボクが愛して止まないところの、ポール・オースターなどは、


名前を聞いたことあるかな? ぐらいな感じなのでした。


町田康に至っては、読んでみたけど、肌が合わない。のだそうでした。


読書家といっても、いろいろですのねんというお話。


何を読んできたか、観てきたか、聴いてきたか、


によって、ニンゲンって違いますよね。


或いは、


元々のニンゲンの作りの違いによって、


読むもの、観るもの、聴くものにも違いが出るのかも知れません。


というお話でした。


まる。