届かないコトバ、響くコトバ

考査期間。


「現代文」のテスト、採点していて思うのは、
かつて、文化について、この世界について語られた、識者たちの言葉の数々、


「素」の状態で、それを受け止め理解する力というの、なまなかには培われないものであるということ。


そりゃ、


派手なビジュアルやパフォーマンス伴いつつ、音声という形で耳から入ってくる、それその時だけインパクトのありそうな、
中身はまったくないのだけれど、力がありそうに感じられるコトバだけが持て囃される理由も、


頷けないではありません。


マトモな人たちの語る、マトモな言説というのは、
得てして、それを理解するために、知性というのを必要と致すことが多いのです……。


簡単なコトバで、わかりやすく、インパクトのある形で、本当のことが語れたら良いのですけれど、
知的なコトバというものは、人を煽ったり、誤魔化したりすることを計算に入れませんから、


勢い、冷静で、小難しくなってしまう。小難しくなると、伝わりにくい、伝わらない。


芸人的スタイル装いで、ビジュアル的にもインパクトがありながら、
権威や権力に媚びないところで、マトモなことを、わかりやすいコトバで語ってくれる人が現れてくれないものか、


と、切に、思う。


のですけれど、そういう人、実は、いないわけではないのでしょうけれど、


「権威権力に媚びない」というそのところで、昨今のメディアには浮かび上がって来ないんだろうな。


記述問題を取り入れるという、件の、大学入試センター試験の新しい国語問題例というの眺めると、
「お上」に逆らわない馬鹿の生産を、ますます熱心に行おうと致しているようですし、


なんだかなぁ感、満載。


来るべき時代に向けて、こんなくだらない問題の対策を高等学校の国語の授業でやる時代が来るのか?と、思うだけで、


萎える……。