真面目な話

「近代化」というのは、科学技術の進歩によって利便性の高まった生活環境だけをいうコトバではありません。
「近代化」というのは、言うまでもなく、「民主化」へのその過程をいうコトバです。


戦後、皮肉なことに、この国は敗戦によって、「民主主義」を手に入れました。というより、与えられました。
皇国史観」的国家体制を離れて、「国民主権」、「基本的人権」、「市民平等」、「恒久平和」を掲げ、それを手に入れました。というより、与えられました。


戦後72年に渡って、他国と武力的抗争を行わなかったということは、誇れることだと思うのです。
それがたとえ、戦争大好きなアメリカの傘の下にあった平和だとしてもです。
しかし、そのことを面白く思わない一群の人たちがこの国にはおります。


日本会議」文化人や、安倍政権の中にいるウルトラ保守は、戦後、「自分たちは抑圧されてきた」、「日本ではサヨクが暴君として圧政を敷いている」という認識の下、自らの「保守革命」を、「抑圧された大衆を解放する運動」だと認識して憚りません。
彼らは戦後、彼らがサヨクと呼ぶ人たちによって日本が壊されたと考えています。「戦後レジームの脱却」というのはそれらを一掃すること。「レジーム」とあえて言い、「脱却」と言う。「打倒アンシャンレジーム」を叫ぶ彼らには「革命」の自覚があるのです。
そんな彼らにとって、「人権意識」や「沖縄の基地反対運動」は、「旧体制」の象徴であるから、決して容認することはできない。


だから、こういうことがいけしゃあしゃあと公言される。
大袈裟なテロップが逆効果で邪魔な映像もあるのですけれど、あえて引用します。






こんな彼らには、戦後の公教育がこの国の理想を歪めてしまったという怒りがあります。
だから、教育のあり方をいじくりたがる変えたがる。
当然、彼らの意に添うような、「国民主権」、「基本的人権」、「市民平等」、「恒久平和」を根本から否定するような方向で。


教育現場にいる者は、この20年近く、そういう流れを嫌になるほど感じているし、良心的な教員ほど、憂鬱な思いをしています。


居心地が悪くなることを承知の上で、敢えて言います。


そんな現在の教育現場で「管理職」になるということは、
国民主権」や「基本的人権」のあり方を改めよう改めたいと考えている者どものお先棒を担ぐことに他なりません。
生来の出世欲とか、名誉欲というものの大きさもその人の身の振り方を左右するのだろうとは思います。


でも、自身が「踏み絵を踏ませる側」に回るかどうか? というのは実は大きな問題です。


その意味において、それがパッと見、どんなに良いヤツでも、
ボクは、教育現場に於ける管理職というものを、人間として根本的なところで信用信頼していません。


そういうボクのあり方は、きっと損なあり方なのでしょう、生き方なのでしょう。
でも、仕事として、己の信じているところを若者に伝える仕事をしているからには、


そこは決して曲げてはならないところだと思うのです。


近年の教員不足の中、とりわけ、維新の台頭の下で急激に職場環境の悪化した大阪府という条件下で、教職に就こうという者が少ない中、
そこで新たに教員になる者たちには、そのあたりの意識は途轍もなく低い。
低いというよりないに等しいかも知れませず、


信用も信頼も、ましてや、尊敬には値しない人間から評価されることを望んで仕事致しているようにも見受けられ……、


冗談ではなく、


この国が、戦前の日本に戻るか戻らないか、
その瀬戸際まで来ているようにボクは思えてなりません。


ただ、救いがあるとするならば、


高等学校「現代文」の教科書に載る文章とその筆者が、まだ、信用信頼に足る人物の書いたものであるということ。


高等学校「現代文」の教科書に、百田尚樹曾野綾子の書いた文章が載るようになるその時が、
この国の終わりだと思うのです。


実は、今の職場の3年生たちが入学した時に購入させたサブテキスト「国語図説」には、先の両名、紹介されております。
ボクが選定に当たっていたら、このサブテキスト、選定しませんでした。


愛国を語って憚らない彼ら、


ボクは、この国を愛していますが、日本人であることを、他の国に生まれた人たちとおなじくらいに嬉しく思っておりますが、


この国の人たち以外の人々を下等動物のように扱って憚らない、あなたたちと同じ日本人であることを、


ボクはこの上なく恥ずかしく思っています。