マチネの終わりに

ゆっくりと、玩味しながら読了した小説の中で、


主人公の女性が、幼い頃、離れて暮らさざるを得なかった父親と、


グローバル化されたこの世界の巨大なシステムは、人間の不確定性を出来るだけ縮減して、予測的に織り込みながら、
 ただ、遅滞なく機能し続けることだけを目的にしている。紛争でさえ、当然起きることとして前提としながら、善行にせよ、悪行にせよ、
 人間一人の影響力が、社会全体の中で、一体何になるって。」


などようのことを語る場面がある。


それを読みながら、


人間には、ざっくり分けてふたつのタイプがありますよね、と思った。


「人間一人の影響力が、社会全体の中で、一体何になる?」と自問しながら、


何にもならないから、取りあえず、己と己の周辺の人たちの幸せだけを一途に考えて生きる人。


と、


直接関わりのない誰かのため、何かのために、何の得にもならなくても、ささやかであっても、何かになるのではないか?と、考えて生きる人。


それは、持って生まれた才能や、生育環境や、受けた教育の程度とは、直接リンクしていないところで、


分かたれているように思う。


前者のような人が、後者のような人を理解することは困難だし、逆もまた然り。


異なるタイプの人間が、同じこの世界を生きていることが、


悲しみを、不幸を、もたらしている。


聖人君子じゃあるまいから、無論、ボクの中にも、前者のようなところがないわけではない。


でも、道徳とか倫理というものは本来、後者のような生き方を説くもの、語るものであるはずで、


ボクは、どちらかというと、そういうことを信じて生きている。


昨日の続きで言うならば、


「学問」とか「教養」というものは、そういうことのために用いられるべきものだと思っている。


憎しみや、侮りや、蔑みや、ネグレクトが、この世界を幸福にするわけがない。


だからボクは、


前者のような人たちが、キライなんだな。


あ、これって憎悪ですか?


困ったもんだ……(笑)