学びを何に使うのか?

世の中の動きにほとほと嫌気がさしている今日この頃、


教育現場は教育現場で、


「目標設定」やら、「評価育成」やら、「絶対評価」の導入やら、「アクティブ・ラーニング」の推進やら、


百害あって一利のなさそうなものばかり、やいのやいのと導入してくる。


「主体的・対話的な授業で深い学び」を目指し、義務教育においては「道徳」の必修化を謳う新学習指導要領、


ひいては文科省


小・中学校の教員、高校でも、聞き分けの良い従順な若手教員の多くは、


素直に、嬉々として、「参加型・対話型」の授業法について熱心に取り組んでいるらしいのですけれど、


それが本当に「知」と「教養」を身につけるのに有効な方法であるならば、


とっくの昔に、学習塾や大学受験予備校が、そのメソッドを導入しているはずで、


彼らがそれに手を出さないのは、


主体的に学ぶ意欲のある者に対しては、「教授型」授業の方が有効であることを知っているからであるわけで、


要は、グループ活動や作業学習を増やせば、学習意欲に乏しい者も眠らずに授業に参加するだろう。


というだけの話。


「ちいちいぱっぱ」、みんな一緒に楽しい授業、なんちゅことばかりやってると、限りある時間の中、教える内容伝える中身が薄くなるばかり。


「深い学び」は学校じゃなく塾や予備校で、という流れが加速していくだけ。塾と予備校が儲かるだけ。


文科省の役人たち、実はそのあたりのことわかっているはず。その上にいる文科省の大臣も、わかっているはず。


実のところ、彼らは、国民全体の「知」や「教養」を向上させることに興味はない。


経済的に恵まれている階層の子だけが、安定的に社会の上位層であり続ける流れを作りたいだけ。


一般庶民が、貧しい者が、賢くなることを彼らは望んでいない。


国民全体に賢くなられると、権力を恣にして己のやってること見透かされて具合が悪くなりますからさ。


彼らにしてみれば、


国民は、お上の言うこと「へへえ」と聞いて、いざという時にはお国のために命を捧げてくれればそれでいいのです。


そんな、文科省の大臣も、噂の「日本会議」のメンバーです。


教育勅語」が素晴らしいとか、国民主権基本的人権を軽視した「改憲」を行いたがるカルトの一員です。


個人的に、「道徳」の教科化に反対している程度には、マトモなようですが。


大学の職業訓練校化が加速度的に進む中、


首尾良く大学に進学できた学生自身も、「学び」を己が食うため生きるための手段としか思わなく、思えなくなるのは当然のことで、


多くの者が視野狭窄に陥っておりますゆえ、


自身の得た「知」や「教養」を、社会に還元しようという意識が希薄にもなるわけで、


望んでいた大学に進学できたのは、確かに努力の賜なのではありましょうが、


それは、他でもない自分自身のために行った努力であって、頑張りであって、


そんな努力ができたのは、経済的に余裕のある家庭に生まれ育ったということがベースにあるわけで、


誰かのために何かを頑張ったわけじゃないのだから、別に、そんなに誇らしく思うことでもないのだよ。


ということを、


4月から大学に入学する諸兄姉、現在大学生をしている諸兄姉に伝えたいと思うアタクシでした。


社会的弱者・マイノリティーに対する共感や視線を最優先する世の中にしていく責任が、


あなたたちにはあるのですから。 さ。