見づらい見えづらい見にくい見えにくい

入試監督の合間の昼食時、


同僚が、


「最近はNHKのアナウンサーでも、「見えづらい」という言葉遣いをするのが、気持ち悪い」


と言い出しまして、オレ、「?」


「見えづらい」に違和感がないどころか、オレも使っているかもしらん……。


同僚は、「「見えづらい」じゃなく「見えにくい」、「づらい」を使うなら「見づらい」だろう」と言う。


そこで、「〜づらい」と「〜にくい」の違いについて考えてみた。


「しづらい」と「しにくい」の間に違いがあるか?
「やりづらい」と「やりにくい」の間に違いがあるか?


これだと、あまり、違いはないように思われる。


けれど、


「歩きづらい」と「歩きにくい」の間に違いはあるか?
「走りづらい」と「走りにくい」の間に違いはあるか?


と言われると、違いはあるように思われる。


この場合、


「〜づらい」は、歩いている、走っている、自身の身体の側に問題がありそう。
「〜にくい」は、歩いている、走っている、路面の側に問題がありそう。である。


そして、


「倒れづらい構造の建物」とは、まかり間違っても言わないが、「倒れにくい構造の建物」という言い方は成立する。


となると、


「〜づらい」は、自身の活動について、主観的に問題支障がある時に用いる言葉であって、外の動きについて使う言葉ではないということになる。


では、なぜ、「見えづらい」を気持ち悪いと感じる人がいるのか?


「見える」は、外的な動きに由来するのであって、自身の活動ではないから、「見えづらい」はおかしい、ということになる。
一方の「見る」は、自己の能動的な活動ということであるから、「見づらい」という表現には違和感はない。


なるほど。


ググってみると、


「〜づらい」は心理的理由を、「〜にくい」は物理的理由を、それぞれ表現するものである。
と、説明しているサイトがありましたが、わかるようでわかりにくい(笑)。


「〜づらい」は主観的理由を、「〜にくい」は客観的理由を言う。という方がわかりやすいかもしれません。


で、


「見る」と「見える」に話を戻すと、


「見る」は他動詞。「〜を見る」というように、「を」で指し示す自身の外にある対象についてアクションする言葉。
一方の「見える」は自動詞。「〜を見える」とは言わない。「〜に見える」というように、「見える」のは自身の活動行為である。


主体が客体に働きかけて変化を生じさせるのが他動詞。
なのですけれど、「見る」、「聞く」、「知る」などといった、知覚や認識に関わる他動詞は、
「壊す」、「叩く」、「切る」、「食べる」のような他動詞と比べると、客体に変化を及ぼしたり動作をさせるといった要素が薄いという性格がある。
「見える」は自動詞だけれど、自然に眼に情報が入ってくるわけなので、「見る」とは違って、そこに「意志」や「働きかけ」の要素がほとんどない。


実のところ、そのあたりが、「知覚」に関わる動詞のイチバン厄介なところなのではないかとボクは思うのでありました。


で、結論を申しますと、


他動詞である「見る」に「〜づらい」をくっつけた、「見づらい」は、自身の外にある対象がよく見えないことを、
自動詞である「見える」に「〜づらい」をくっつけた、「見えづらい」は、己自身の目がよく見えていないことを、


同様に、


他動詞である「見る」に「〜にくい」をくっつけた、「見にくい」は、自身の外に原因があることを、(「醜い」の語源ですよね)
自動詞である「見える」に「〜にくい」をくっつけた、「見えにくい」は、己自身の目がよく見えていないことを、


言うのであれば、


どちらもオーケーなのではないかと思うのですけれど、


どーなんでしょ?


日本語、難しいデスね〜!


で、明日は、550人超の受験生の答案を採点……。


55歳オーバーの目には、


見づらい見えづらい見にくい見えにくい


のだにゃ〜(笑)