政治の話をしよう

日本会議の研究』菅野完(墨塗り版) 読了


扶桑社から出ていることに疑念がありましたが、
社内、一枚岩じゃないということなのでありましょう(苦笑)


政治には興味がないという方にこそ、お薦め致します。


ほとんど知っていたこと、わかっていたこととは申せ、
こう明け透けに順を追って説明されますと、驚き呆れるのを超えて、


この国が、もう、ほとんどどうしようもないところまで来てしまっていることに、


深い絶望を禁じ得ないのでありました。


要するに、


現在ただ今、「改憲」の狼煙を高らかに上げている「一群の人々」というのは、
何らの合理性も論理性も持たぬところで、自身の「信仰」として、「明治憲法」回帰を願っているということ。


それは、もはや、政治でも思想でもなく、「宗教」であり「信仰」であるということ。


ですから、己の「信仰」に従って、信じるところを実現しようとしている「一群の人々」に対して、
マトモな理屈や言説は一切通用しないし、彼らにそれを聞く耳はありません。


彼らの訴える、正しい『歴史認識』も、『夫婦別姓反対』も、『従軍慰安婦』は捏造であることも、『反ジェンダーフリー』も、


すべて、「信仰」から発せられている。極端に言えば、理屈も論理も、そこには一切存在しないのです。


改憲についても、
1.「緊急事態条項の追加」 〜 「三権分立」、「基本的人権」の原則を一時無効化、内閣総理大臣に独裁権限を賦与する。も、
2.「家族保護条項の追加」 〜 13条「すべての国民は、個人として尊重される」、24条「個人の尊厳」を削除する。 も、
3.「自衛隊の国軍化」   〜 9条2項を見直し、「戦力の保持」を認める。 も、


すべて、「信仰」から発せられている。そこにも、理屈や論理は、あるようで、実は存在していないのです。


新興宗教団体から派生した、70年安保時代に「左翼打倒」の旗印を掲げて活動した連中が、
現在に至るまで水面下で続けてきた運動が、今、実を結ぼうとしている。


第3次安倍内閣閣僚の、21/24名が「日本会議国会議員懇談会」のメンバーである。という、それが、現実なのです。


筆者によると、


彼ら「一群の人々」は、この社会の人々がバカにし、嘲笑し、足蹴にしてきた、
デモ・陳情・署名・抗議集会・勉強会といった「民主的な市民運動」を地道に積み重ねながら、
極めて非民主的な自分たちの思想を、現実のものにしようと努力してきた。


このまま行くと、「民主的な市民運動」が、この国の民主主義を殺してしまうという皮肉が待っている。


「民主的な市民運動」は、「民主主義を生かす」ために行われなくてはいけない。
ひとりひとりの個人が、近代化、民主化が誰のためのものであるのかを再度問い直して、
民主主義を守るために行動しなくてはならない土壇場、ギリギリ、瀬戸際まで、もうこの国は来ているとボクは思います。


みんなが動かなければ、発言しなければ、この国は、カルト宗教の教祖を頂く、信仰の国に成り下がる。


ボクたちは、いつまでも、政治の話、思想の話を嫌っている場合ではありません。


首相とその妻は、同じ穴の狢である「学園」を、応援支持していました。100%間違いなく。
今、金の問題だけでなく倫理上の問題として、やっとメディアも取り上げるに至ったらしい件の学園、
その理事長と妻の思想、教育方針の大枠に、首相とその妻は、共感し支持していました。100%間違いなく。
維新の会も、この学園の運営を下支えしていました。100%間違いなく。


そんな人が、我が国の首相でいいんですか? 地方自治体の長でいいんですか? というお話です。


ボクは、それでいいとは思えません。


今、彼らは尻尾切りを行って、必死に逃げを打とうとしています。そんな恥ずかしい人々を、そのまま頂いていていいのでしょうか?
恥ずかしい者どもの行う政治が、まともであるはずはないでしょう。


話を簡単にしようと思います。


創価学会」が、「幸福の科学」が、「立正佼成会」が、「霊友会」が、「天理教」が、「真如苑」が、「統一教会」が、
この国の政治の舵を取ることになったとして、あなたはそれを許容できますか?


今、この国では、それとほぼ同義のことが、進んでいる、進められているのです。


その流れを止めるのは、どこかの誰かではありません。今、我々ひとりひとりの力、しかないとボクは思います。